第51話 喜び
「勘違いするな」
ジレーヌの声が、夜の庭園に響いた。弦を引きながら、冷たい声で言い放つ。
「お前たちを助けに来たわけじゃない。この村の近くにまで吸血鬼が来ている。一匹残らず潰すだけだ」
そう言いながら、ジレーヌの矢は正確にドラコたちを囲む吸血鬼だけを狙っていた。一射一殺。弓の名手と呼ばれたエルフの技は、数百年の歳月を経ても錆びていなかった。退路を塞いでいた吸血鬼が矢に射抜かれ、裏門への道が僅かに開いた。
ポーラーが庭園に姿を現した。両手から放たれる魔術の光弾が、吸血鬼の群れを薙ぎ払う。ジレーヌの矢とポーラーの魔術が連携し、吸血鬼たちの包囲が崩れ始めた。
ドラコはその隙を見逃さなかった。
「今だ。裏門から行ける」
だが、フローレンスが動かなかった。
狙撃銃を下ろし、ポーラーとジレーヌの方を見ている。二人は背中合わせに戦っていた。ポーラーの魔術が前方を、ジレーヌの弓が側面を担当している。だが、吸血鬼の数が多すぎる。二人だけでは、いずれ押し切られる。
フローレンスの紅い瞳が、静かに揺れた。
「ドラコ」
フローレンスの声は、いつもの冷静な声だった。だが、その奥に決意があった。
「わたしは残ります」
ドラコが振り返った。フローレンスの紅い瞳と、ドラコの紅い瞳が交差した。
「ポーラー様の命はわたしが救った命です。わたしが助けた命を、ここで失うのは許せない」
フローレンスの視線が、ジレーヌに向いた。弓を射り続ける姉の背中。
「それに、お姉様とは、ちゃんと話し合いをしたい。まだ、伝えきれていないことがあります」
フローレンスは狙撃銃を構え直した。医者の手が、戦士の手に変わっていた。
「先に行ってください」
ドラコはフローレンスを見つめた。長い付き合いだ。この女が決めたことは、誰にも覆せない。それは、ドラコが一番よく知っている。
ドラコは軍服のポケットから、一枚の紙片を取り出した。小さく折り畳まれたメモだった。
「フロー」
ドラコがメモをフローレンスに差し出した。
「検討してくれ」
フローレンスは片手でメモを受け取り、素早く目を通した。戦場の只中で、ほんの一瞬。だが、その一瞬でフローレンスの表情が変わった。
紅い瞳が、僅かに見開かれた。それから、唇の端が持ち上がった。笑顔だった。フローレンスが笑ったのだ。氷のように冷たい表情を崩さない女が、戦場の真ん中で、笑った。
「分かりました」
フローレンスの声は穏やかだった。メモを丁寧にポケットに仕舞い、ドラコを見た。
「ドラコ。一五年ぶりに、あなたに会えて、本当に嬉しかった」
その声には、数百年を共に生きてきた者の重みがあった。仲間。戦友。一五年の眠りを経て、再び出会えた。その喜びを、フローレンスは今まで一度も口にしなかった。言う必要がないと思っていた。感情を表に出すのは、フローレンスの流儀ではない。だが、今は言わなければならない。別れの前に、伝えておかなければならないことがある。
「オレもだ」
ドラコは短く答えた。それだけで十分だった。二人の間に、それ以上の言葉は要らなかった。数百年の付き合いが、短い言葉に全てを込める。
ジレーヌが矢を射りながら、ドラコの方を見た。薄緑色の瞳に、一瞬だけ複雑な光が過ぎった。妹が命を懸けて守ろうとしている相手。妹を一五年も傍に置いていた魔王。何かを言おうとして、口を開きかけた。だが、言葉は続かなかった。
「……いや、何でもない」
ジレーヌは視線を戻し、弦を引いた。矢が吸血鬼の胸を貫いた。言いかけた言葉は、弦の音にかき消された。
ドラコは帽子の鍔を引き下げた。
「死ぬなよ」
フローレンスに向けた、最後の言葉だった。フローレンスは小さく頷いた。
「医者は、自分の体を粗末にはしません」
その声は、いつものフローレンスだった。冷静で、的確で、揺るぎない。ドラコは安心した。この女は大丈夫だ。必ず、また会える。
ドラコはエルザの手を取り、走り出した。エルザの足がもつれた。涙で前が見えない。だが、ドラコの手が力強くエルザを引いた。ベアトリクスがエルザの反対側の手を握り、アビゲイルが後方を警戒しながら続く。
裏門を抜けた。リファランの街の夜気が、汗ばんだ肌に触れた。大通りは暗いが、街灯の灯りが道を示している。駅はこの先だ。走れば間に合う。
エルザが振り返ろうとした。宮殿の方角で、魔術の閃光と弓弦の音が響いている。フローレンスが、そこで戦っている。自分たちのために。
ドラコがエルザの手を引いた。
「前を向け」
短い一言だった。エルザは歯を食いしばり、前を向いた。涙が風に飛ばされていく。走る。今は、走るしかない。フローレンスが作ってくれた時間を、無駄にしてはいけない。
四人が夜の大通りを駆ける。足音だけが、暗い街に響いていた。
その背後で、フローレンスが踵を返した。狙撃銃を構え、吸血鬼の集団に向かって走り出す。ポーラーとジレーヌの傍に並び、三人が横一列に立った。
魔術師と、弓使いと、狙撃手。
三人の前に、吸血鬼の群れが追っている。
ポーラーの指先に、魔力が凝縮されていく。ジレーヌが矢筒から矢を抜き、弦に番えた。フローレンスは最も近い敵の心臓に狙いを定めた。
フローレンスのポケットの中で、ドラコのメモが微かに音を立てた。あの馬鹿げた頼みごと。それを果たすためにも、ここで死ぬわけにはいかない。
フローレンスは引き金を引いた。




