第49話 柄にもないこと
「これから先、おまえ自身の力で何とかしなければならない状況が来るかもしれない。オレやフローが傍にいられない時が」
ベアトリクスの表情が引き締まった。
「今はオレたちがエルザとお前を守っている。だが、いつもそうとは限らない。離れ離れになることもある。敵に囲まれて、頼れるのが自分だけという時が来るかもしれない」
ドラコの声は厳しかったが、そこには相手を信頼する温もりがあった。
「吸血鬼の体は強い。お前はまだその力を使いこなせていないが、いずれ必要になる時が来る。その時のために、少しずつでいい。自分の力を知っていけ」
ベアトリクスは深く頷いた。ドラコの言葉を、正面から受け止めている。小さなメイドの顔に、覚悟の芽が見えた。
「はい。努力します」
ドラコは帽子を被り直し、窓の外に目を戻した。
「よし。エルザのところに戻ってやれ。あいつ、一人にしとくと余計なことを考えるからな」
「はい。おやすみなさい、ドラコさん」
ベアトリクスは立ち上がり、丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。扉が閉まる音が、静かに響いた。
しばらくして、ドラコの部屋にフローレンスが入ってきた。
ノックはしなかった。長い付き合いだ。フローレンスがノックをするのは、ドラコが本当に一人になりたい時だけだった。今は、そうではないと分かっているのだろう。
フローレンスは部屋の壁にもたれ、腕を組んだ。ドラコは窓際で手帳を再び開いている。
「エルザ様は眠りましたか」
「ベアトリクスが見に行った。多分、寝てるだろう」
「そうですか」
しばらく沈黙が流れた。フローレンスが壁にもたれたまま、天井を見上げている。アビゲイルは別の部屋で本を読んでいるらしく、この部屋にはドラコとフローレンスの二人だけだった。
窓の外で、夜風が木々を揺らした。遠くから、夜番の兵士が交代する足音が微かに聞こえた。
やがて、フローレンスがぽつりと言った。
「ドラコ」
「ん」
「もし、財団との件が全て終わったら」
フローレンスの声は、いつもの冷静さの中に、僅かな柔らかさがあった。リーファのエルフの村で姉と向き合って以来、フローレンスの声は時折こうなる。冷たい氷の下に、僅かな温もりが流れるように。
「今後は、どうするつもりですか」
ドラコのペンが止まった。
その質問は、ドラコ自身もまだ答えを出していないものだった。一五年の眠りから覚め、ギルバートとの約束に従ってエルザを守り、財団と戦っている。だが、その先は。全てが終わった後のことは、考えていなかった。
「フローはどうなんだ」
ドラコが逆に訊いた。フローレンスは僅かに目を細めた。
「わたしは変わりません。吸血症の根絶。それが終わるまで、わたしの目的は変わらない」
迷いのない声だった。数百年間、一つの目的だけを追い続けてきた女の声だ。フローレンスには揺るぎがない。だが、ドラコは違う。ドラコの目的は一つではなかった。エルザを守ること。財団を倒すこと。そして――。その先に何があるのかは、まだ見えていない。
ドラコはしばらく考え込んだ。ペンを手帳の上に置き、窓の外の月を見つめた。湖の水面に映る月が、風に揺られて揺れている。
それから、ドラコは隣の部屋の方向に目を向けた。壁の向こうで、エルザとベアトリクスが眠っているはずだ。先ほどのベアトリクスの姿が脳裏に浮かんだ。姫様の傍にいられることが一番大切だと言い切った、あの小さなメイド。剣でも魔術でもなく、日々の世話を通じて主人を支える。戦いとは無縁の、穏やかな献身の形。それは、ドラコにとって新鮮な生き方に映った。
ドラコは僅かに目を細めた。口元に笑みが浮かんでいる。
「まだ、はっきりとは分からないな」
ドラコの声は穏やかだった。窓から差し込む月明かりが、その笑顔を照らした。
「だが、まあ。柄にもないことを、やってみるのも悪くないな」
一五年前のドラコは、こんな答えは出さなかっただろう。あの頃のドラコは、もっと孤独だった。エルザやベアトリクスとの旅が、この男を少しずつ変えている。フローレンスには、それが見えていた。
フローレンスの唇が、ほんの僅かに緩んだ。微笑みと呼ぶには淡すぎるが、確かにそこにはあった。
「そうですか」
それだけ言って、フローレンスは壁から背を離した。だが、部屋を出る前に一度だけ足を止めた。
「悪くない答えだと思います」
フローレンスの声は、いつもの冷静な声だった。だが、その奥に温もりがあった。フローレンスはそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。足音が、静かに遠ざかっていた。
ドラコは一人になった部屋で、再び手帳を開いた。ペンを取り、今日の出来事を書き始める。リファランに着いたこと。ポーラーに会ったこと。エルザが狙われていると改めて知ったこと。ベアトリクスと話したこと。フローレンスの問い。
全てを書き終えて、ドラコはペンを止めた。
柄にもないこと。自分で言っておきながら、口元が緩むのを止められなかった。ベアトリクスの姿が、また浮かんだ。メイド服を着て、丁寧にお辞儀する小さな背中。あの姿を見て、ある考えが頭に浮かんでいた。馬鹿馬鹿しい考えだ。だが、嫌な気分ではなかった。むしろ、心の奥が温かくなるような感覚があった。
全てが終わったら、フローに一つ頼みごとをしよう。ドラコはそう思った。あいつがどんな顔をするか、想像するだけで笑えた。
月明かりの下で、手帳を閉じた。愛しの人に見せるための、今日の記録。明日は汽車に乗る。帝国へ。レオンのもとへ。まだ見えない答えを、探しに行く。




