第48話 日記
宮殿の廊下を歩きながら、フローレンスがエルザの隣に歩み寄ろうとした。
ドラコの言葉を受けて僅かに顔を上げたエルザだったが、まだ表情は沈んだままだった。医者として、あるいは年長者として、何か声をかけるべきだとフローレンスは思ったのだろう。だが、フローレンスが口を開く前に、ドラコが軽く手を上げた。
フローレンスがドラコを見た。ドラコは帽子の鍔の下から、静かに首を横に振った。今は、そっとしておいてやれ。そういう意味だった。
フローレンスは一瞬だけ口を開きかけたが、すぐに閉じた。ドラコの判断を理解したのだ。言葉が必要な時もあれば、沈黙が必要な時もある。今のエルザには、自分の中で整理する時間が必要だった。
廊下の向こうから、ポーラーの侍従が小走りに近づいてきた。
「皆様。ポーラー様より、お伝えがございます」
侍従は丁寧に頭を下げた。
「旅のお疲れがあるでしょう。宮殿の来客用の部屋をご用意いたしましたので、今夜はどうぞごゆっくりお休みください。明日の汽車の出発は昼過ぎですので、朝もゆっくりできますよ」
ドラコはエルザの横顔を見た。沈んだ表情。疲労もある。ヴェンツェル王国を出てから、まともに休めた日は数えるほどしかない。エルフの村では治療の手伝いに奔走し、リファランまでの道のりも徒歩だった。体も心も、限界に近いはずだ。特にエルザには、休息が何より必要だった。
「ありがたい。頼む」
ドラコが即答した。
案内された部屋は、広く清潔だった。来客用とは言え、宮殿の一室だ。柔らかな寝台が二つ並び、窓からは庭園の縁が見える。洗面台には温かい水が用意され、卓上には果物と茶が置かれていた。壁にはアンティグア王国の紋章が刺繍されたタペストリーが飾られ、部屋全体に落ち着いた香りが漂っている。
エルザとベアトリクスが一つの部屋を使い、ドラコたちは隣の部屋を使うことになった。
エルザは部屋に入ると、寝台に腰を下ろした。そのまま、しばらく動かなかった。窓の外を見つめている。何を考えているのか、その横顔からは読み取れない。ただ、隣にいる。それだけで十分だった。やがて、エルザの手がベアトリクスの手を探すように伸びた。ベアトリクスがそっと握り返した。二人はしばらくそうしていた。
夕暮れが過ぎ、夜になった。
宮殿の廊下は静かだった。窓の外には、リファランの街に灯りが点っている。湖の水面が月光を映し、銀色に揺れていた。
ドラコは隣の部屋の窓際に座り、手帳を広げていた。
ペンを手に、何かを書き込んでいる。手帳は使い込まれた革表紙で、ページの端が擦り切れている。古い手帳。いつもの日記だった。何年も、何十年も、書き続けてきた手帳。
ドラコの手が止まり、書いた文字を読み返した。それから、ペンを置き、窓の外に目を向けた。月が湖の上に浮かんでいる。
部屋の扉が控えめに叩かれた。
「ドラコさん」
ベアトリクスの声だった。ドラコは手帳を閉じようとして、やめた。
「入っていいぞ」
扉が開き、ベアトリクスが顔を覗かせた。エルザは既に眠りについたのだろう。ベアトリクスの表情には、少しだけ安堵が見えた。
「あの……お忙しいときにすみません」
「忙しくない。座れ」
ドラコが窓際の椅子を指した。ベアトリクスは遠慮がちに部屋に入り、椅子に座った。その視線が、ドラコの手帳に向いた。
「ドラコさん。それは、日記ですか」
ベアトリクスの声に、純粋な好奇心があった。メイドとして仕えていた頃から、ベアトリクスは観察力の鋭い子だった。ドラコが夜に手帳を広げていることに、前から気づいていたのかもしれない。
ドラコは手帳を閉じず、開いたまま膝の上に置いた。
「ああ。日記だ」
「なぜ、日記をつけているのですか」
素朴な質問だった。ドラコは僅かに口元を緩めた。帽子の鍔の下から、紅い瞳が柔らかくなった。普段の飄々とした表情ではなく、もっと穏やかな、温かい顔だった。
「愛する人に、見てもらうためだ」
ベアトリクスが目を丸くした。ドラコの口から「愛する人」という言葉が出るとは思わなかったのだろう。ドラコは笑みを浮かべたまま、手帳の表紙を指先で撫でた。
「オレが何を見て、何を感じて、どう生きたか。全部書いてある。あいつに読んでもらうためにな」
ベアトリクスは何か訊きたそうにしていたが、それ以上は踏み込まなかった。ドラコが大切にしている相手のことを、今は訊くべきではないと感じたのだろう。メイドとしての気遣いか、あるいは年齢の割に鋭い直感か。
ドラコは手帳を閉じ、膝の上に置いた。笑顔が消え、真剣な表情になった。
「ベアトリクス」
ドラコの声の調子が変わった。ベアトリクスが背筋を伸ばした。
「改めて言わなければならないことがある」
ドラコは帽子を脱いだ。白髪が額にかかる。帽子を外したドラコの顔は、いつもより美しく、若く見えた。そして、その紅い瞳には、確かな悔いがあった。
「お前を吸血鬼にしてしまったことを、オレは謝らなければいけない」
ベアトリクスの紅い瞳が、僅かに揺れた。
「あの時、お前は死にかけていた。他に方法がなかった。だが、それでも。お前の体を、お前の人生を、オレの判断で変えてしまった。その責任は、オレにある」
ドラコの声は静かだった。言い訳はしない。理由を並べて正当化もしない。ただ、事実を述べ、謝罪する。それがドラコのやり方だった。ドラコはベアトリクスの紅い瞳を真っすぐに見た。かつては別の色をしていはずのその瞳を。
「お前はまだ若い。本当なら、もっと普通の人生を歩けたはずだ。朝日の下で笑って、好きなものを食べて、年を重ねていく。そういう当たり前の日々を、オレが奪ってしまった」
ベアトリクスの唇が僅かに震えた。だが、目をそらさなかった。
「すまなかった」
ベアトリクスは、しばらく黙っていた。窓の外の月明かりが、ベアトリクスの横顔を照らしている。吸血鬼になってから変わった、紅い瞳。かつては違う色だったはずのその瞳で、ベアトリクスはドラコを見つめた。
「ドラコさん。わたしは、あの時助けていただいたことを、後悔していません」
小さな声だった。だが、はっきりとした声だった。
「吸血鬼になって、変わったことはたくさんあります。食事が辛いこと。日の光が眩しいこと。この紅い瞳のこと。前のように普通に暮らすことは、もうできないかもしれません」
ベアトリクスの声は震えていなかった。ここ数日で、この少女は確実に強くなっていた。
「でも、生きているから、姫様の傍にいられる。姫様をお守りすることができる。それが、わたしにとって一番大切なことです」
ベアトリクスは深く頭を下げた。腰から折るような、丁寧なお辞儀だった。メイドとして叩き込まれた所作が、ベアトリクスの体に染みついている。
「助けてくださって、ありがとうございます」
ドラコは、ベアトリクスの顔を見つめた。帽子を手に持ったまま、しばらく動かなかった。それから、右手をベアトリクスの頭の上にそっと置いた。ぽんと、一度だけ軽く叩く。
「……いい子だな、お前は」
ベアトリクスの目が潤んだ。だが、泣かなかった。代わりに、小さく微笑んだ。
「それと、もう一つ」
ドラコは手を引き、真剣な目でベアトリクスを見た。




