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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま
第Ⅰ章 プリンセス オブ ブラッド

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第43話 理由

「あの夜のことは、わたしも忘れていません」


 フローレンスの声が、静かに響いた。短剣を突き付けられたまま、姉の目を見つめている。紅い瞳。吸血鬼の証。かつては姉と同じ色の瞳だったはずだ。それが今は、紅く変わっている。


「父と母を殺した吸血鬼を、わたしも憎んでいます。あの夜から一日も、その気持ちが消えたことはありません。それは今も変わりません」


 ジレーヌの目が、僅かに見開かれた。短剣を握る手に、力が籠った。


「憎んでいると言いながら、自ら吸血鬼になった。それが、お前の出した答えか」


 声が震えていた。怒りだけではない。裏切られた者の、痛みが滲んでいた。ジレーヌにとって、妹が吸血鬼になったことは、両親の死と同じくらいの衝撃だったのだ。父と母を奪ったものと同じ存在に、自らの意志でなった。それは、ジレーヌの中で両親を二度殺されたことと同義だった。

 フローレンスは一度だけ目を閉じた。そして、再び開いた時、その紅い瞳には覚悟があった。


「わたしが吸血鬼になったのは、吸血症を治すためです」


 部屋の空気が、変わった。エルザが息を呑み、ベアトリクスがフローレンスを見つめた。フェリアの目から、再び涙が溢れた。ドラコだけは表情を変えなかった。知っていたのだ。最初から。


「吸血症を根本から治療するには、病の仕組みを内側から理解する必要がある。血液の変化、身体の変異、魔力の流れ。それらを知るには、外から観察するだけでは足りない。自らが吸血鬼にならなければいけない。わたしはそう考えました」


 ジレーヌの表情が、凍りついた。短剣を握る手が、微かに震えている。怒りとは違う震え。聞きたくなかった言葉を聞いてしまった者の、震え。


「だから、わたしは自分の体を実験体にした。吸血鬼になり、自分自身の体で吸血症の仕組みを研究してきた。血液の変化を記録し、身体の変異を観察し、魔力の流れを分析する。今に至るまで、数百年の間、ずっと」


 フローレンスの声は淡々としていた。だが、その淡々さの裏には、途方もない歳月の重みが積もっていた。エルフの村を捨て、姉に命を狙われ、仲間だった者たちからも拒絶され、吸血鬼として生きることを選んだ。全ては、吸血症を消滅させるため。たった一つの目的のために、全てを捨てた。


「吸血症がこの世から消えれば、父と母のような犠牲者は二度と生まれない。あの夜のような悲劇は、もう起きない。わたしにとっての敵討ちは、吸血鬼を一人ずつ殺すことではない。病そのものを、根絶することです」


 フローレンスの声は静かだったが、その奥には数百年分の決意が込められていた。姉は弓を手に、敵を一人ずつ倒す道を選んだ。妹は医術を手に、病そのものを消す道を選んだ。同じ夜に同じものを失った姉妹が、正反対の方法で復讐を果たそうとしている。

 沈黙が落ちた。

 ジレーヌの薄緑色の瞳が、妹の紅い瞳を見つめていた。短剣はまだフローレンスの喉元に向けられている。だが、その切っ先が僅かに揺れていた。

 ジレーヌの唇が、何かを言おうとして開きかけた。だが、言葉は出なかった。代わりに、唇が強く結ばれた。感情を飲み込むように、顎に力が入っている。妹の言葉を、すぐには処理できなかったのだ。吸血症を消すために、自らが吸血鬼になる。それは狂気とも言える選択だ。だが同時に、あの病弱だった妹が辿り着いた、妹なりの答えでもあった。

 フェリアが両手を胸の前で握り、涙を堪えていた。二人の過去を知る者として、今のやり取りがどれほどの重みを持つか、フェリアに分かっていた。

 ベッドの上の老女が、また咳き込んだ。苦しそうな声が、姉妹の間に落ちた。

 フローレンスの視線が、一瞬だけ老女に向いた。そして、再びジレーヌに戻った。


「わたしは、この村の病を診に来ました。それだけです。診察が終われば去ります。ですが、終わるまでは退きません」


 医者の声だった。姉妹の確執も、過去の傷も、今はすべて脇に置いている。目の前に患者がいる。それだけが、フローレンスを動かしている。数百年前に抱いた夢。病に苦しむ者を救いたいという願い。あの病弱な少女が胸に灯した小さな炎は、吸血鬼になった今もなお、消えていなかった。

 ジレーヌは、長い間フローレンスを見つめていた。

 やがて、短剣が下ろされた。

 鞘に戻したわけではない。ただ、フローレンスの喉元から刃が離れただけだ。ジレーヌの薄緑色の瞳には、まだ怒りがあった。だが、その奥に別の何かが混じっていた。困惑か、動揺か、あるいはもっと複雑な感情か。フローレンスにも、読み取れなかった。


「……勝手にしろ」


 低い声で、それだけ言った。ジレーヌは踵を返し、部屋を出て行った。背中には弓と矢筒。その背中は、かつてフローレンスが追いかけた姉の背中と同じはずだった。だが今は、その背中に刻まれた怒りと悲しみの両方が見える。足音が廊下に響き、やがて聞こえなくなった。

 フェリアが、崩れるように壁にもたれた。両手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。幼い頃から二人を見てきたフェリアにとって、この姉妹の対立は、自分自身の胸を引き裂かれるような痛みだったのだろう。

 部屋に残されたのは、患者たちと、フローレンスと、ドラコたちだった。

 誰も、すぐには口を開けなかった。フローレンスが語った過去の重さが、部屋の中に沈殿していた。

 エルザは、フローレンスの横顔を見つめていた。吸血症を根絶するために、自ら吸血鬼になった。それがどれほどの覚悟を要する決断だったか。両親を殺した存在と同じものになるという選択。エルザには想像もつかない痛みが、そこにはあったはずだ。

 ベアトリクスは、自分の胸に手を当てていた。ポケットの中にある、フローレンスから受け取った栄養補助剤の容器。あの薬は、フローレンスが吸血症の研究の中で生み出したものだ。数百年の研究の、一つの成果。それを自分に譲ってくれた。その意味が、今になってようやく分かった気がした。

 フローレンスはしばらくの間、ジレーヌが去った戸口を見つめていた。その横顔に浮かぶ表情を、誰にも読み取ることはできなかった。姉に全てを告げた。伝えるべきことは伝えた。それで姉の心が変わるとは思っていない。だが、言わなければならなかった。

 やがて、フローレンスは静かに膝をつき、老女の傍に戻った。中断していた診察を、再開する。手帳を開き、指を腹部に当て、脈を確認する。その手つきは、先ほどと変わらなかった。冷静で、丁寧で、的確。何事もなかったかのように。

 フェリアが涙を拭い、フローレンスの傍に駆け寄った。何か手伝えることはないかと訊いている。フローレンスは短く指示を出し、フェリアが頷いて薬草を取りに走った。二人のやり取りは、かつての親友同士というよりも、医者と助手のそれだった。だが、それでよかった。今はそれが、一番必要な関係だ。

 ドラコは帽子の鍔を引き下げ、壁にもたれ直した。フローレンスがペンを持つ指先が僅かに震えていたことを、ドラコは見ていた。だが、何も言わなかった。フローレンスは震える手で、それでも文字を書き続けていた。医者の手は、止まらない。

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