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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま
第Ⅰ章 プリンセス オブ ブラッド

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第42話 過去

 短剣の切っ先が、フローレンスの喉元で微動だにしない。

 ジレーヌの手は安定していた。迷いがない。この刃を振るうことに、躊躇がない。数百年にわたって妹を追い続けてきた姉の手。その手が、今、一歩の距離で止まっている。

 部屋の中の空気が凍りついていた。患者たちは怯えた目で二人を見つめ、フェリアは青ざめた顔で立ち尽くしている。ドラコは壁際で銃に手を添え、エルザとベアトリクスは患者の傍で身動きが取れなくなっていた。

 フローレンスは、動かなかった。退きもしなければ、避けもしない。紅い瞳が、真っすぐにジレーヌの薄緑色の瞳を見返している。

 沈黙が、数秒続いた。部屋の外からは、咳き込む村人の声が微かに聞こえてくる。この村にはまだ大勢の患者がいる。フローレンスの中で、その事実が全てに優先していた。

 やがて、フローレンスが口を開いた。


「消えません」


 静かな声だった。だが、その一言には揺るぎがなかった。短剣を突きつけられている者の声とは思えないほど、落ち着いていた。


「ここには病で苦しんでいる患者がいます。診察の途中です。終わるまでは、ここを離れません」


 ジレーヌの薄緑色の瞳が、僅かに揺れた。怒りの中に、別の感情が一瞬だけ混じったように見えた。だが、すぐにそれは消え、再び冷たい敵意だけが残った。


「患者だと。お前に診られるエルフの身にもなれ。吸血鬼に体を触られて、誰が安心できる」

「それでも、わたしは医者です。患者を前にして立ち去ることはできない」


 二人の声が、狭い部屋の中で交差した。

 ドラコは壁際で銃に手を添えたまま、二人のやり取りを見守っていた。フローレンスが自分で決着をつけるべき問題だと分かっている。だが、刃が動けば、即座に介入する。その覚悟は決めていた。

 ジレーヌの唇が薄く開いた。


「昔から、お前はそうだった」


 その声に、微かな変化があった。怒りの底に、別の何かが滲んでいる。憎しみだけでは説明がつかない、もっと深い場所にある感情。


「頑固で、言い出したら聞かない。体が弱いくせに、無茶ばかりする」


 フローレンスの紅い瞳が、僅かに見開かれた。ジレーヌの言葉が、不意に過去の記憶を引きずり出していた。

 体が弱い。その言葉が、フローレンスの胸を貫く。憎しみの中にあっても、ジレーヌは覚えているのだ。病弱だった妹のことを。

 フェリアも、ジレーヌの言葉にはっとした顔をしていた。この姉妹を幼い頃から知るフェリアには、ジレーヌの言葉の裏にある感情が見えていたのかもしれない。

 フローレンスは幼い頃、体がとても弱かった。

 長寿で病気に強いはずのエルフでありながら、フローレンスは頻繁に体調を崩した。風邪に似た症状で寝込み、季節の変わり目には必ず熱を出す。他のエルフの子供たちが森を駆け回っている間、フローレンスはベッドの上で天井を見つめていた。窓の外から聞こえる笑い声が、時に残酷なほど明るく響いた。

 村の薬師では手に負えず、外から医者を呼ぶことも珍しくなかった。人間の医者、エルフの回復術師、時にはドワーフの薬剤師。様々な者がフローレンスの枕元に立った。

 そのため、フローレンスにとって医者は最も身近な存在だった。幼い頃から多くの医者と接し、彼らが病と向き合う姿を間近で見てきた。薬の調合、症状の見極め、患者への声のかけ方。治療を受ける側だったフローレンスが、いつしか治療をする側になりたいと思うようになったのは、自然な流れだった。

 自分のように病で苦しむ者を助けたい。数多の病気を治したい。エルフとしては異例の夢を、フローレンスは抱いた。エルフは長寿ゆえに一つの分野に特化する傾向が強い。弓、隠密、魔術。そうした伝統的な技能を磨くのがエルフの常だった。医学の道を選ぶ者は、ほとんどいない。

 だが、フローレンスは勉学に励んだ。医書を読み漁り、薬草の知識を蓄え、村の外にまで足を運んで人間の医者から学んだ。病弱な体に鞭を打ちながら、知識と技術を積み重ねていった。

 そして、その夢を誰よりも応援していたのが、姉のジレーヌだった。

 姉妹の仲は、最初から悪かったわけではない。むしろ逆だった。互いに信頼しあえる、とても仲の良い姉妹だった。ジレーヌは病弱な妹をいつも心配し、体調が悪い時には傍を離れなかった。熱を出して寝込むフローレンスの額に冷たい布を当て、夜通し看病したこともあった。フローレンスが医者を目指すと言った時も、ジレーヌは微笑んで「お前ならなれる」と言った。

 弓の名手として村の守りを担うジレーヌと、医者として村人を救うフローレンス。二人はそうやって、それぞれの形で村を支えていくはずだった。

 その運命を変えたのは、吸血鬼だった。

 ある夜、村が吸血鬼の集団に襲われた。何の前触れもなく現れた吸血鬼たちは、村人を次々と襲い、血を吸い、殺した。静かな夜が、一瞬で阿鼻叫喚の地獄に変わった。ジレーヌは弓を手に戦ったが、多勢に無勢だった。矢が尽きるまで射ち続け、それでも止められなかった。村は蹂躙じゅうりんされ、多くの命が失われた。

 その中に、姉妹の両親もいた。

 父と母は、吸血鬼に殺された。目の前で。二人の娘が見ている前で、首筋を噛み裂かれ、血を抜かれ、冷たくなっていった。ジレーヌが矢を番える間もなく、フローレンスが叫ぶ間もなく、両親の命は奪われた。あの夜の光景を、二人は一生忘れることができない。

 その夜から、全てが変わった。ジレーヌの中に、吸血鬼への消えない憎悪が刻まれた。両親を奪った存在。村を壊した存在。二度と許さない。その怒りは、数百年が経った今もなお、消えることなく燃え続けている。

 フローレンスも同じだった。両親を殺した吸血鬼を、フローレンスも恨んでいた。だが、フローレンスが選んだ復讐の形は、姉とは全く違うものだった。

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