第41話 エルフの面汚し
フローレンスの診察は、丁寧で的確だった。
フェリアが案内した家には、三人のエルフが横たわっていた。壮年の男性、若い女性、そして年老いた女性。全員が青白い顔色をしており、断続的に咳き込んでいる。老女は腹部を抑え、呻き声を漏らしていた。部屋には薬草の匂いが充満しており、枕元には煎じ薬の器がいくつも置かれていた。フェリアが調合したものだろう。
フローレンスは黒い鞄から医療道具を取り出し、一人ずつ診察していった。脈を取り、瞳孔を確認し、口腔内を診る。腹部を触診し、呼吸音に耳を澄ませる。患者一人あたりに一〇分以上の時間をかけ、症状の一つ一つを黒い手帳に書き留めていく。その手つきには一切の迷いがなかった。何百年と積み重ねてきた経験が、一つ一つの動作に宿っている。
壮年の男性は、フローレンスの紅い瞳を見て僅かに怯えた。吸血鬼だと気づいたのだろう。だが、フローレンスが穏やかな力加減で脈をとり、低い声で「深呼吸をしてください」と指示する頃には、男性の緊張は解けていた。患者を安心させる術を、フローレンスは知っていた。
ドラコは部屋の隅で壁にもたれ、フローレンスの診察を黙って見守っていた。エルザとベアトリクスは別の患者の世話を手伝い、水を運んだり額の汗を拭いたりしている。アビゲイルは村の構造や魔術的な異常がないかを確認するため、外を歩き回っていた。
二人目の若い女性の診察を終えた時、フローレンスの手帳にはびっしりと文字が書き込まれていた。フェリアが横からその手帳を覗き込もうとしたが、フローレンスの字は細かすぎて読めなかった。
三人目の老女の腹部に手を当てた時、フローレンスの指が僅かに止まった。何かに気づいたのか、同じ個所をもう一度、慎重に触診する。紅い瞳が鋭くなった。手帳に何かを素早く書き込み、老女の顔を見た。
その時だった。
「何をしている」
冷たい声が、部屋の入り口から響いた。
全員の視線が、入口に向けられた。
戸口に立っていたのは、一人のエルフの女性だった。金色の長い髪を後頭部で一つにまとめ、左頬に一筋の傷がある。薄緑色の瞳が、部屋の中を射抜くように見据えていた。腰には短剣を帯び、背中には弓と矢筒を背負っている。長身で、姿勢に隙がない。戦い慣れた者の佇まいだった。
フローレンスの手が、止まった。
顔を上げたフローレンスの紅い瞳と、戸口に立つ女性の薄緑色の瞳がぶつかった。
ジレーヌ。
フローレンスの実の姉。テオドル王国の宮殿で、矢を放ってきたあのエルフ。かつて勇者レオンの仲間として魔王討伐の旅に同行した弓使いのエルフ。弓の腕は大陸でも屈指。そして、吸血鬼となった妹を、長い年月にわたって追い続けている。
ジレーヌの表情は、普段の冷静さとはかけ離れていた。鬼の形相、という言葉がそのまま当てはまる顔だった。感情を滅多に表に出さないはずのジレーヌが、今は怒りを隠そうともしていない。薄緑色の瞳の奥で、激しい感情が燃えていた。
フェリアが青ざめた顔で、ジレーヌとフローレンスの間に視線を行き来させている。二人の間にある確執を、フェリアも知っているのだろう。体が強張り、一歩も動けなくなっていた。
「何をしている、と聞いた」
ジレーヌが一歩、部屋に踏み込んだ。声は低く、抑えられていたが、その奥には剝き出しの敵意があった。ジレーヌの視線がフローレンスだけに向けられている。部屋にいるドラコや他の者たちなど、眼中にないかのように。
「診察です」
フローレンスの声は、揺るがなかった。患者の腹部から手を離し、立ち上がる。ジレーヌと正面から向き合った。姉妹は互いに同じ長身で、同じように感情を押し殺す術を知っている。だが今、その均衡は崩れていた。ジレーヌの怒りだけが、部屋の空気を支配していた。
「診察。お前が」
ジレーヌの唇が歪んだ。嘲りとも怒りともつかない、歪な笑みだった。
「吸血鬼が、エルフの村で医者の真似事か。笑わせるな」
その言葉に、フェリアが息を呑んだ。患者の老女も、苦しそうな顔の中に怯えを滲ませた。エルザとベアトリクスが患者の傍で動きを止め、息を殺している。ドラコは壁から背を離し、帽子の鍔の下からジレーヌを注視した。手は腰の銃に添えている。まだ抜かない。だが、いつでも抜ける。
ジレーヌの手が、腰の短剣の柄に伸びた。鞘から引き抜く動作は滑らかで、無駄がなかった。歴戦の戦士の手だ。刃をフローレンスに向ける。短剣の切っ先が、フローレンスの喉元に突きつけられた。距離は、一歩分。刃の先端が、微かに光を反射した。
「今なら見逃してやる。消えろ」
ジレーヌの声が、凍てついた。一語一語が、刃のように鋭い。
「エルフの面汚し」
その一言が、部屋の空気を切り裂いた。
エルフの面汚し。吸血鬼に両親を殺されたにもかかわらず、自ら吸血鬼となった妹。ジレーヌにとって、それは最大の裏切りだった。エルフの誇りを捨て、仇の側に身を置いた妹への憎悪が、その四文字に凝縮されていた。
フェリアが「やめて」と叫びかけたが、声が出なかった。喉が引き攣り、言葉にならない。ベッドの上の患者たちが怯えた目で姉妹を見つめている。
フローレンスは、短剣の切っ先を見つめていた。喉元に突きつけられた刃。姉の手。この手が何度も自分を殺そうとしたことを、フローレンスは知っている。テオドル王国の宮殿で放たれた矢。あの時と同じ殺意が、今も姉の瞳の奥に宿っている。
だが、フローレンスは一歩も退かなかった。
紅い瞳が、真っすぐにジレーヌを見返していた。恐怖はない。怒りもない。ただ、静かな決意だけがあった。
部屋に沈黙が落ちた。短剣の刃とフローレンスの喉の間に、わずかな空間だけが残されていた。ジレーヌの薄緑色の瞳と、フローレンスの紅い瞳が交差している。同じ両親から生まれた姉妹。かつては同じ家で育ち、同じ森で遊んだ二人。今は、刃を挟んで向き合っている。
ドラコの指が、銃の安全装置に触れた。まだ、動かない。フローレンスが自分で対処すると信じている。だが、もしジレーヌが本当にその刃を振るうなら、その時は躊躇わない。
エルザが唇を噛み、ベアトリクスはフローレンスの名を呼びたいのを堪えるように、自分の手を強く握りしめていた。
ベッドの上の老女が、苦しそうに咳き込んだ。その音が、張り詰めた沈黙を破った。
フローレンスの視線が一瞬だけ老女に向けられ、すぐにジレーヌに戻った。その一瞬の動きが、フローレンスの答えだった。ここには、まだ診るべき患者がいる。退くわけにはいかない。
姉妹の対峙は、まだ終わらない。




