第108話 父と母の声
エルザが一歩を踏み出した。
紅い瞳が少女を捉えている。金色の髪が魔力の風に靡き、王の間の薄暗い空気が紅い光に染まっていた。ダンピールとして覚醒したエルザの足元から、目に見えない圧力が広がっていく。石畳が軋み、空気そのものが震えている。
少女が動いた。幻惑術を放った。先ほどベアトリクスを無力化した、あの精神を侵す冷たい魔力。黒紫の靄がエルザに向かって蛇のように伸びてくる。ベアトリクスを無力化した術だ。あれを受ければ、心を壊される。
エルザは足を止めなかった。
幻惑術がエルザの体に触れた瞬間、紅い光が弾けた。ダンピールの魔力が幻惑術を拒絶し、黒紫の靄が四散する。吸血鬼の術は、ダンピールには通じない。半吸血鬼の血が、吸血鬼の術を打ち消したのだ。
少女の紅い瞳が見開かれた。初めて見せる、明確な動揺だった。自分の幻惑術が、何の効果も発揮できずに霧散した。それは少女にとって、初めての経験だった。
エルザの右手に魔力が凝縮された。炎ではなかった。紅い光そのものが形を成し、刃のように鋭く輝いている。ダンピールの力が生み出す、吸血鬼への絶対的な武器。自分でも驚くほど自然に、その力は手の中に宿った。まるで最初から、ここにあったかのように。
エルザが右手を振った。紅い光の刃が弧を描き、少女の周囲にいた吸血鬼たちを薙ぎ払った。光に触れた吸血鬼たちが、悲鳴すら上げる間もなく灰に変わっていく。一体、二体、三体。紅い光が通過するだけで、吸血鬼たちは存在を保てなかった。
四体目、五体目。紅い光が王の間を横切るたびに、灰が増えていく。エルザは自分の力に驚いていた。体が勝手に動く。どう戦えばいいのか、血が知っている。父と母の血が、教えてくれている。
王の間に残っていた吸血鬼たちが、本能的に後退した。天敵の気配に怯えるように、壁際へと逃げていく。だが、逃げ場はなかった。ライカの狙撃が一体を撃ち抜き、レオンの黄金の大剣がもう一体を両断した。エルザの覚醒によって生まれた隙を、二人は見逃さなかった。
少女の幼い顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。右腕の火傷を庇いながら、左手に魔力を集中させる。破壊術の黒紫の光が膨れ上がった。
だが、エルザの方が速かった。
紅い光を纏った右手で、少女の破壊術を真正面から掴み取った。黒紫の光がエルザの手のなかで砕け散る。少女が驚愕に目を見開いた。自分の破壊術を、素手で握り潰された。あり得ないことだった。破壊術はあらゆるものを破壊する術だ。それを無傷で受け止めるなど、少女の常識にはなかった。
エルザの蹴りが少女の腹部に叩き込まれた。少女の体がくの字に折れ、王の間の床を転がっていく。石畳が砕け、砂塵が舞った。
「がっ……」
少女が初めて、苦悶の声を漏らした。床に手をつき、よろめきながら立ち上がる。紅い瞳でエルザを睨みつけた。だが、そこにあったのは怒りではなく、困惑だった。なぜ、こんな力を持っている。人間の小娘が、なぜ。
少女は追い詰められていた。破壊術は通じない。幻惑術も効かない。部下の吸血鬼たちは次々と灰になっている。残された手段は、一つだけだった。
少女の魔力が、先ほどとは異なる色を帯びた。黒紫ではなく、深い藍色。幻惑術だ。だが、先ほどとは比較にならない密度の術式が練り上げられている。少女が持つ全ての魔力を注ぎ込んだ、最後の幻惑術。先ほどのように軽く弾かれはしない。命を削ってでも、この術だけは通す。少女の紅い瞳に、覚悟の光が宿った。
ベアトリクスの心の傷を暴いたあの術を、全力でエルザに向けて放った。
エルザの視界が歪んだ。
今度は防げなかった。先ほどの幻惑術とは桁が違う。少女が全力を込めた術は、ダンピールの防壁すら貫いてきた。エルザの意識が暗闇に沈んでいく。
目を開けると、そこは王の間ではなかった。
白い部屋だった。温かい光が窓から差し込んでいる。見覚えのない場所だ。だが、不思議と懐かしい気配がした。揺りかごのような安心感が、エルザを包んでいた。
部屋の中央に、二人の人物が立っていた。
一人は、長身の男だった。穏やかな目をした壮年の男。魔術師でありながら帝国兵士の団長を務めた、ヴェンツェル王国の国王。その姿は記憶の中にあるものよりも若く、力に満ちていた。
父、ギルバート・ヴェンツェル。
もう一人は、女だった。長い金色の髪を持つ、凛とした美しい女。腰に大剣を帯び、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。その瞳は紅かった。吸血鬼でありながら騎士として戦い、愛する娘のために命を捧げた女。
母、ルイーザ・ヴェンツェル。
エルザの目から涙が溢れた。
「お父様……お母様……」
声が震えた。父の顔は覚えている。一年前まで、共に過ごしていたから。だが、母の顔を見るのは初めてだった。ドラコから聞いた話でしか知らない人。自分を産むために命を捧げた人。その人が、今、目の前にいる。
ギルバートが微笑んだ。温かく、穏やかな笑み。病に倒れる前の、元気だった頃の父の顔だった。
「エル。お前は立派に戦っている」
ルイーザも微笑んだ。紅い瞳が、エルザと同じ色に輝いている。ドラコが語った「優秀な騎士」の面影が、その立ち姿に宿っていた。
「わたしが、わたしたちの血が、あなたを守るわ。だから大丈夫。自身をもって戦いなさい」
母の声を聞いたのは、生まれて初めてだった。優しく、凛として、どこかドラコに似た響きがあった。ずっと聞きたかった声だ。ドラコから母のことを教えてもらった日から、いつか聞いてみたいと願っていた声。それが今、こんな形で叶うなんて。
エルザは涙を拭った。泣いている場合ではない。父と母が、ここにいてくれる。ならば、負けるわけにはいかない。




