表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま
第Ⅰ章 プリンセス オブ ブラッド

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

107/108

第107話 紅

 封じていた記憶だった。エルザと出会い、メイドになり、穏やかな日々を送る中で、少しずつ心の奥に沈めていったはずの記憶。二度と思い出したくなかった過去が、少女の幻惑術によって無理やり引きずり出されていた。

 荷馬車の中で膝を抱えている幼い自分の姿が、ベアトリクスの精神を蝕んでいく。あの頃の恐怖が、孤独が、生々しく蘇る。体が動かなかった。ロードの力も、竜の腕も、意識の端に追いやられている。幼い日の自分に吞み込まれて、戦うことを忘れかけていた。

 その瞬間を、少女は見逃さなかった。

 幻惑の中で硬直しているベアトリクスに向けて、少女が破壊術を放った。黒紫の光がベアトリクスの腹部を直撃する。衝撃でベアトリクスの体が宙に浮き、王の間の壁に叩きつけられた。石壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。口から血が溢れた。

 ベアトリクスは受け身すら取れなかった。幻惑の中にいる意識は、攻撃されたことすら把握できていない。痛みだけが遠い場所から響いてくる。

 続けて二発目。少女の破壊術がベアトリクスの肩を砕いた。竜の鱗が砕け、赤い血が飛び散る。ベアトリクスの体が床を転がった。

 幻惑が解けない。壁際に崩れ落ちたベアトリクスは、床にうつ伏せのまま動けなかった。深紅の瞳が虚ろに揺れている。ロードの姿は維持されているが、片翼も地面に伏せられていた。

 少女が歩み寄ってきた。足音は静かだった。無表情のまま、ベアトリクを見下ろしている。


「弱い」


 少女が呟いた。その手に、魔力が集束する。とどめの一撃。ベアトリクスは身動きが取れない。幻惑術で精神を砕かれ、破壊術で体を打ち据えられ、もはや抵抗する力が残っていなかった。

 少女の手が振り下ろされようとした、その時。

 横合いから、火炎の矢が少女を襲った。

 少女が咄嗟に身を捻り、直撃は避けた。だが、炎が少女の右腕を焼き、集束していた魔力が霧散むさんした。少女が弾かれるように横へ跳び、距離を取る。

 エルザだった。

 右手から炎の残滓を散らしながら、エルザがベアトリクスの前に駆け寄った。吸血鬼の残滅戦の途中で、ベアトリクスの危機を察知して駆けつけたのだ。エルザの膝が床につき、手がベアトリクスの頬に触れた。温かかった。


「ベアト! しっかりして!」


 エルザの声が、幻惑の闇を切り裂いた。

 荷馬車の中で泣いている幼い自分が、遠くなっていく。代わりに、エルザの顔が見えた。エメラルド色の瞳が、真っ直ぐにベアトリクスを見ている。あの日、暗闇の中に差し込んだ光。

 幻惑が、薄れていく。


「ひめ、さま……」


 ベアトリクスの唇が動いた。掠れた声だった。意識が少しずつ戻ってくる。王の間の天井が見えた。戦闘の音が聞こえた。目の前に、エルザがいた。

 エルザがベアトリクスの手を握った。強く、温かく。血に濡れた竜の腕ではなく、左手を。その温もりが、幻惑に凍りついた心を少しずつ溶かしていく。


「あなたは一人じゃないわ。あの頃とは違う。わたくしがいる。ドラコがいる。みんながいる。だから、もう大丈夫よ」


 エルザの声が震えていた。ベアトリクスが幻惑術の中で何を見せられていたのかは分からない。だが、ベアトリクスが泣いていたことは見えた。あの強いベアトリクスが、涙を流して動けなくなっていた。それだけで十分だった。今は、この子を守ることだけを考える。


「ベアト。あなたは十分に戦ったわ。魔術式の発動で疲れているはず。少し休みなさい。ここからは、わたくしに任せて」


 命令ではなかった。親友としての、お願いだった。ベアトリクスの目から、また涙が零れた。今度は、幻惑のせいではなかった。


「姫様……ごめんなさい……わたし……」

「謝らないで。あなたは何も悪くない」


 エルザの声は優しかった。だが、その奥に、別の何かが燃えているのをベアトリクスは感じていた。

 エルザはベアトリクスの手をそっと離し、立ち上がった。少女がこちらを見ている。焼かれた右腕を庇いながら、無表情の紅い瞳がエルザを捉えていた。

 エルザの中で、何かが燃え上がった。

 怒りだった。静かで、深い怒り。ベアトリクスを、自分の親友を、こんな目に合わせた。過去の傷を無理やり暴き出し、その痛みで動けなくなったところを容赦なく攻撃した。それが、どうしても許せなかった。

 王女として冷静であろうとした。いつもそうしてきた。どんな状況でも、感情に流されず、正しい判断をしようとしてきた。だが、今は無理だった。目の前で親友が泣いている。その涙を流させた者が、すぐそこに立っている。


「わたくしの親友を……よくも」


 声が低かった。エルザ自身が驚くほどに。

 胸の奥で、何かが脈動した。心臓ではない。もっと深い場所。血の奥底に眠っていた、もう一つの力が目を覚まそうとしていた。

 ダンピール。人間の父ギルバートと、吸血鬼の母ルイーザの間に生まれた半吸血鬼の血。ドラコから聞かされた、自分の正体。今まで感じたことのない力が、親友を傷つけられた怒りに呼応するように、体の奥から湧き上がってくる。

 お母様。心の中で、会ったことのない母に呼びかけた。あなたの血が、わたくしの中にあるのなら。今、この力を貸してください。大切な人を守るために。

 エルザの体から、魔力が溢れ出した。今までとは質の違う魔力だった。人間の魔術師としての力ではない。もっと根源的な、血に刻まれた力だ。王の間の空気が震え、床の石畳に細かな亀裂が走った。

 エルザのエメラルド色の瞳が、紅く染まっていく。

 ベアトリクスが息を呑んだ。ライカが狙撃の手を止め、エルザを見た。レオンの目が見開かれた。王の間で戦っていた全員の動きが、一瞬止まった。

 エルザの瞳が、完全に紅色に変わった。

 金色の髪が魔力の風に靡き、その身を紅い光が包んでいる。瞳の奥に宿った紅は、ベアトリクスのものとは異なる光を放っていた。吸血鬼の紅でも、ロードの深紅でもない。人間と吸血鬼の血が交わった、ダンピールだけが持つ紅。吸血鬼を殺すために生まれた力が、今この瞬間に覚醒した。

 床にうつ伏せていたベアトリクスが、顔を上げた。涙に滲んだ深紅の瞳が、エルザの背中を見つめていた。あの金色の髪が、紅い光の中で靡いている。あれは、姫様だ。自分の知っている、誰よりも強い姫様だ。

 少女の無表情が、初めて揺らいだ。紅い瞳がわずかに見開かれ、エルザの放つ魔力に反応して半歩退いた。本能的な警戒だった。吸血鬼の本能が、目の前の存在を天敵だと認識している。

 エルザは少女を見据えた。紅い瞳が、冷たく光る。その手に、今までとは比較にならない密度の魔力が渦巻いていた。炎ではない。もっと純粋な、破壊の力。ダンピールの血が生み出す、吸血鬼への絶対的な力。


「わたくしの大切な人を傷つけた報い、受けてもらう」


 ダンピールが、目覚めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ