第106話 幼き日の記憶
ベアトリクスと少女が向き合っていた。
王の間の中央。周囲では吸血鬼たちとライカ、レオン、エルザの戦闘が続いている。剣戟と魔術の音が響く中、二人の間だけが静寂に包まれていた。少女の紅い瞳が、じっとベアトリクスを見つめている。品定めをするような、無感情な視線だ。
ベアトリクスの竜の腕に炎が灯る。ロードの力は健在だ。だが、魔術式の発動に膨大な魔力を注ぎ込んだ後だ。万全とは言い難い。全力で戦える時間は限られている。体の奥底に残った魔力を手繰り寄せ、竜の腕に集中させる。赤い鱗が淡く脈動した。
それでも、やるしかない。姫様たちが地下室に辿り着くまで、この少女を止めなければならない。
ベアトリクスは竜の腕を構えたまま、口を開いた。
「一つ、訊きたいことがあります」
少女は答えなかった。だが、攻撃もしなかった。訊いてみろ、とでも言うように、微かに首を傾げた。
「アビゲイルさんは……あなたと戦ったアビゲイルさんは、どうなったんですか」
声が震えそうになるのを堪えた。ターリンガで一人残ったアビゲイル。あの小さな背中が、少女に向かっていくのを見たのが最後だ。あれから安否すら分からない。生きているのか、それとも。その答えを聞くのが怖かった。だが、聞かなければならなかった。
少女が口を開いた。初めて聞く声だった。幼い見た目に相応しい、高く澄んだ声。だが、そこに感情の色はなかった。
「あの方のお気に入りなので、殺してはいません」
あの方。誰を指しているのかは分からない。だが、殺していない。アビゲイルは生きている。その言葉だけで、ベアトリクスの胸に安堵が広がった。それが分かっただけで、戦う理由がまた一つ増えた。
だが、安堵したのは一瞬だった。
少女の魔力が膨れ上がった。破壊術ではない。城壁の上で傭兵たちを狂わせた、あの不気味な気配だ。精神に直接触れてくるような、冷たい魔力。ベアトリクスは咄嗟に龍の腕で防御の構えを取ったが、この術は物理的な防御では防げない。精神への攻撃だ。ロードの力で耐性があるはずだが、消耗した今の状態で防ぎきれるかどうか。
「では、始めましょう」
少女の声が響いた瞬間、ベアトリクスの視界が歪んだ。
幻惑術。
王の間が消えた。少女が消えた。戦闘の音が消えた。代わりにベアトリクスの目の前に広がったのは、見覚えのある景色だった。
古い家だった。壁はひび割れだらけで、窓ガラスは割れている。狭い部屋に、粗末な寝台が一つ。薄い毛布の上に、小さな女の子が座っていた。
薄茶色の髪。怯えた緑色の目。幼い頃の、自分だった。
ベアトリクスは息を呑んだ。これは、記憶だ。自分の記憶。封じ込めていたはずの、幼い日の記憶。幻惑術が心の奥底を探り、最も深い傷を見つけ出したのだ。
両親の顔はもう覚えていない。物心がつく前に、二人とも亡くなった。病気だったのか、事故だったのか、それすらも教えてもらえなかった。残されたのは幼い自分だけだった。
遠い親戚の家に養子として引き取られた。だが、そこに温かい場所はなかった。
幻惑の中で、記憶が動き出す。
親戚の子供たちが、幼いベアトリクスを囲んでいた。三人の子供たち。その顔に浮かんでいるのは、純粋な悪意だった。
「お前の親はいないんだろ。誰にも要らないから死んだんだよ」
一人が言った。他の二人が笑う。幼いベアトリクスは何も言い返せなかった。ただ、俯いて唇を嚙んでいた。涙は出なかった。泣いたら、もっと酷いことをされると知っていたから。
毎日だった。朝から晩まで、酷い言葉を投げつけられ、殴られ、食事を抜かれた。親戚の大人たちは見て見ぬふりをしていた。余計な子供を引き取ったという不満が、そのまま放置へと変わっていた。食卓にベアトリクスの分は並ばず、残り物を一人で食べた。冬でも毛布は一枚だけで、夜は寒さに震えながら朝を待った。
ある日、子供たちの一人がベアトリクスの唯一の持ち物である、母がプレゼントしてくれたリボンを奪い取った。返してと手を伸ばしたが、リボンは目の前で引き裂かれた。笑い声が、耳の奥にこびりついて離れなかった。
あの日、幼いベアトリクスは初めて泣いた。声を殺して、誰にも見つからないように。暗い部屋の隅で膝を抱え、破れたリボンを握りしめて泣いた。
誰も助けてくれなかった。親戚の大人に訴えても、「子供同士のことだから」と取り合ってもらえなかった。自分は要らない子なのだ。この家にいてはいけない子なのだ。幼い心が、そう結論を出した。
地獄だった。この家にいたら、いつか壊れてしまう。幼いベアトリクスは、ある夜、家を抜け出した。どこへ行くあてもなかった。ただ、ここではないどこかへ。それだけを考えて、暗い道を裸足で走った。石が足の裏を切り、血が地面に点々と落ちた。痛みなど感じなかった。あの家の毎日に比べれば、足の傷など何でもなかった。
だが、逃げた先にあったのは、もっと深い地獄だった。
街道で、男に捕まった。太った商人だった。逃げる子供を捕まえることに慣れた手つきで、ベアトリクスの腕を掴んだ。振りほどこうとしたが、大人の力に敵うはずもなかった。悲鳴を上げたが、誰も助けに来なかった。夜の街道に、味方はいなかった。
奴隷商人だった。
身寄りのない子供を攫い、金で売り飛ばす。ベアトリクスは暗い荷馬車の中に押し込まれた。他にも子供たちがいた。誰もが同じように怯えた目をしていた。泣く子もいた。だが、泣いても叫んでも、荷馬車は止まらなかった。暗闇の中で体を丸め、膝を抱えた。どこに連れて行かれるのか、何をされるのか、想像することすら恐ろしかった。
荷馬車が揺れるたびに、子供たちの体がぶつかり合う。誰も言葉を発しなかった。泣くことすら、もう疲れてしまった子供たちが、暗闇の中で息を殺していた。
ここで死ぬのかもしれない。幼い心が、そう思った。誰にも見つけてもらえないまま、誰にも覚えてもらえないまま、消えていくのだと。名前すら呼んでもらえないまま。
ベアトリクスの目から涙が溢れた。幻惑の中ではなく、現実の体が泣いていた。




