第109話 始まりの場所へ
幻惑術の闇が、二人の姿を包もうとした。少女の術が、エルザの心を蝕もうとしている。恐怖を、絶望を、孤独を植え付けようとしている。闇が壁を這い、天井を覆い、白い部屋を黒く染めていく。
エルザの心が凍りそうになった。闇が、両親の姿を吞み込もうとしている。
だが、ギルバートが手を掲げた。魔術師としての力が光となり、幻惑の闇を押し返す。かつて帝国最強と謳われた魔術が、娘の心の中で再び輝いた。
ルイーザが大剣を抜いた。吸血鬼としての力が刃に宿り、同族の術を切り裂いていく。かつてドラコと共に戦場を駆けた騎士の剣が、娘の心を守るために振るわれた。
二人の力が、幻惑術を逆流させていく。人間の父と吸血鬼の母。その二つの血が合わさったダンピールの力が、術式を通じて少女の精神に流れ込んでいった。
温かい記憶だった。親が子を想う記憶。命を賭けて守りたいと願う記憶。ルイーザがお腹の子のために人間の食事を取り続けた日々。ギルバートが娘の未来を守るために魔術式を刻んだ夜。それが、少女の精神に流れ込んだ。少女には理解できない感情だった。自分のために命を捧げる者の記憶など、少女は知らなかった。
「なに、これ……やめて……」
少女が頭を抱えた。幻惑術が崩壊していく。自分が仕掛けた術が、自分を蝕んでいる。温かさが、少女の冷たい精神にひびを入れていた。
エルザの意識が現実に戻った。紅い瞳が再び王の間を捉える。目の前に、頭を抱えて蹲る少女がいた。幻惑術の反動で、少女自身の精神が乱れている。
エルザは迷わなかった。
紅い光を纏った右手を少女に向けた。ダンピールの力が凝縮され、眩い光の槍が形成される。吸血鬼を滅ぼす、純粋な力の結晶。
少女が顔を上げた。紅い瞳が、エルザの紅い瞳と交差した。
「……強い」
少女が呟いた。ベアトリクスに向けた「弱い」とは対照的な、静かな一言だった。幼い紅い瞳には、もう戦意は残っていなかった。幻惑術の反動で体は動かず、魔力を尽きている。だが、不思議と恐怖の色はなかった。
エルザの右手から、紅い光の槍が放たれた。
光が少女の胸を貫いた。少女の体が紅い光に包まれ、端から灰になっていく。幼い顔から表情が消え、紅い瞳がゆっくりと閉じられた。最後に少女の唇がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
灰が、王の間の床に散った。風もないのに、灰は静かに舞い上がり、やがて消えていった。あれほどの力を持っていた少女が、一握りの灰すら残さなかった。
エルザは少女が消えた場所を見つめていた。怒りはもう消えていた。残ったのは、かすかな痛みだった。あの少女にも、何か事情があったのだろうか。だが、それを考えるのは今ではない。
少女は、もういなかった。
王の間に、静寂が降りた。
エルザの紅い瞳が、ゆっくりとエメラルド色に戻っていく。ダンピールの力が潮のように引いていく。体から力が抜け、膝が折れそうになった。だが、踏み留まった。まだ、倒れるわけにはいかない。
ライカとレオンが最後の吸血鬼を仕留めたのは、ほぼ同時だった。ライカの狙撃が一体の心臓を撃ち抜き、レオンの黄金の大剣がもう一体を斬り捨てた。灰が二つ、同時に舞った。
王の間から、敵の気配が完全に消えた。
「終わったわ」
ライカが狙撃銃を下ろし、静かに呟いた。
覚醒の反動が体を襲う。手足が震え、視界がぼやけた。だが、エルザは一つだけ確かめなければならないことがあった。
エルザはベアトリクスの元へ駆け寄った。壁際に横たわっていたベアトリクスは意識があった。深紅の瞳がエルザを見上げている。涙の跡が頬に残っていたが、その目には光が戻っていた。
「姫様……すごかった……」
掠れた声だったが、笑みが浮かんでいた。あの幻惑の絶望から抜け出せた証だった。
「馬鹿ね。そんなことより、立てる?」
エルザはベアトリクスの手を取り、ゆっくりと起こした。ベアトリクスの体は傷だらけだったが、ロードの回復力が少しずつ傷を塞ぎ始めていた。
王の間の奥から、足音が聞こえた。ラミーナとリューネット、そして数名の傭兵たちだった。全員が傷だらけだったが、自分の足で歩いていた。
「廊下の確保、完了しました。地下室まで、敵はいません」
ラミーナが報告した。刀を杖代わりにしていたが、切れ長の目に疲労の色が濃いながらも声はしっかりとしていた。リューネットもメガネを押し上げ、小さく頷いた。廊下には倒した吸血鬼の灰が散っているはずだ。傷だらけの傭兵たちが、最後まで退路を守り抜いてくれたのだ。
「よくやったわ、ラミー、リューネ」
ライカの声には、労いと安堵が混じっていた。全ての戦いが終わった。あとは、地下室の魔術式でヴェンツェル王国へ転移するだけだ。
ライカが傭兵たちに向き直った。
「あなたたちは、ここに残ることになるわ。魔術式の転移は四人が限度。ラミー、リューネ。残った兄弟たちをまとめて、安全な場所まで撤退して」
ラミーナが頷いた。異論はなかった。最初から分かっていたことだ。ライカたちをヴェンツェル王国に送り届ける。それが、自分たちに与えられた役目だった。
ライカ、レオン、エルザ、ベアトリクス。四人が地下室への階段に向かった。ベアトリクスはエルザに肩を借りながら、ゆっくりと歩いている。
階段を降りる直前、ライカが振り返った。
ラミーナとリューネット、そして傭兵たちが整列していた。傷だらけの体で、背筋を真っ直ぐに伸ばして。倒れた仲間たちの分まで、胸を張って立っていた。
ラミーナが右手を額に掲げた。敬礼だった。リューネットが続き、傭兵たち全員が一斉に敬礼をした。
声はなかった。言葉は要らなかった。その敬礼が全てを語っていた。ここまで共に戦った誇り。送り出す覚悟。そして、必ず勝ってくれという祈り。
ライカが微笑んだ。そして、右手を額に掲げ、敬礼を返した。
「ありがとう。生きて、また会いましょう」
ラミーナの目に涙が光った。だが、敬礼の手は崩さなかった。リューネットのメガネの奥の目も潤んでいたが、微動だにしなかった。
レオンが軽く手を挙げた。不器用な別れの挨拶だった。だが、傭兵たちはそれで十分だと分かっていた。
エルザが深く頭を下げた。王女の礼だった。戦場で、傷だらけの姿で、それでも美しい礼だった。ベアトリクスもエルザの隣で頭を下げた。声は出なかった。だが、その礼が全てを伝えていた。命を賭けて守ってくれた人たちへの、心からの感謝を。
四人は地下室へ降りていった。
魔術式の紋様が、淡い光を放って待っていた。ベアトリクスが命を削るようにして発動させた、ヴェンツェル王国への道。
四人が魔術式の上に立った。光が強くなり、紋様が回転を始める。足元から温かい光が立ち上り、四人の体を包んでいく。
エルザがベアトリクスの手を握った。ベアトリクスが握り返した。二人の視線が交わった。言葉は要らなかった。
ライカが目を閉じた。ドラコ、待っていて。あなたの願いを、必ず届けるから。
「行くわよ」
ライカの声を最後に、光が四人を包み込んだ。
転移の光の中で、エルザは心の中で呟いた。お父様、お母様。ありがとうございます。あなたたちの娘は、まだ戦えます。
魔王城が、遠ざかっていく。




