第103話 籠城戦
異変が起きた。
崖の下に、小柄な影が一つ現れた。吸血鬼の群れの後方から、ゆっくりと歩いてくる。幼い顔立ち。紅い瞳。だが、その気配は周囲の吸血鬼たちとは明らかに異質だった。禍々しいほどに濃密な魔力が、少女の周囲に渦巻いている。
ライカの目が細くなった。あの少女は、ただの兵士ではない。魔力の質が違いすぎる。
「レオン。あの女の子、知っているの」
ライカが訊いた。レオンの表情が険しくなっていた。
「ターリンガでオレたちの前に立ちはだかった奴だ。アビゲイルがあの少女を引き受けて、オレたちを逃がした」
つまり、ここにいるということは。ライカの胸の奥が冷たくなる。アビゲイルとの戦いに決着がついたのか。アビゲイルは、どうなったのか。だが、今は考えている場合ではない。
少女が両手を掲げた。
魔力が膨れ上がる。破壊術ではなかった。もっと不気味な、精神に直接触れるような気配だ。
次の瞬間、城壁の上の傭兵たちが異変を起こした。
一人の傭兵が、突然悲鳴を上げた。弓を取り落とし、頭を抱えてうずくまる。隣の傭兵も同様だ。狙撃銃を構えていた兵が銃を落とし、両目を押さえて叫び出した。城壁の上が、一瞬で混乱に陥った。
少女の魔術が、傭兵たちの精神を直接攻撃していた。見えないはずのものが見え、聞こえないはずの声が聞こえる。恐怖や苦痛を増幅させ、正気を奪う。歴戦の傭兵たちが、子供のように怯え始めた。
「幻惑術か……!」
レオンは歯を食いしばった。精神攻撃はレオンには効かない。勇者としての耐性が、幻惑を弾いている。だが、傭兵たちにはそんな耐性はない。城壁の防衛線が、一瞬で崩壊しつつあった。
ライカは幻惑術の影響を受けていなかった。人狼や吸血鬼としての精神耐性が、少女の術を退けている。だが、周囲の傭兵たちは次々と正気を失っていく。
照準を合わせた。少女の頭部。距離はかなりあるが、ライカの腕なら届く。
「術者を倒せば、術は解ける」
引き金を引いた。
銀の弾丸が夜を切り裂き、少女に向かって飛んだ。少女が気配を察知して防御術を発動するが、少女の体が揺らぎ、集中が途切れた。
幻惑術が解けた。
傭兵たちが正気を取り戻し始める。頭を抱えていた者が顔を上げ、取り落とした武器を拾い直す。だが、貴重な数十秒の空白が、致命的な隙を生んでいた。
幻惑術で防衛線が乱れた間に、吸血鬼たちが崖を登りきっていた。堀を超え、城壁に取りつき始めている。最前列の吸血鬼が城壁の上に飛び上がり、傭兵に襲いかかった。近接戦が始まった。
レオンが黄金の大剣を抜いた。刀身が夜の中で眩い光を放つ。城壁の上に飛び上がってきた吸血鬼を、一閃で両断した。灰が散る。続く二体目、三体目。黄金の剣が弧を描くたびに、吸血鬼が灰に変わった。
だが、次から次へと登ってくる。城壁の上での戦いは、圧倒的に不利だった。足場が狭く、数の優位を活かされる。
「城内に引け! 籠城する!」
レオンの判断は早かった。城壁で防衛は限界だ。城の内部に引き込み、狭い通路を利用して数の不利を補う。傭兵たちが城壁から飛び降り、城の中へ撤退を始めた。
ライカがレオンの横に駆け寄った。
「ベアトリクスの魔術式はまだ完全に起動していないわ。時間が要る」
「分かっている。城の中で稼ぐ」
城門が閉じられた。厚い鉄の扉と鉄の閂が、吸血鬼たちの突入を一時的に阻む。だが、吸血鬼の腕力ならそう長くは持たない。
ラミーナが傭兵たちを指揮し、廊下にバリケードを築き始めた。テーブル、棚、木箱。使えるものは何でも積み上げる。リューネットが精神術の膜を廊下に展開し、侵入してくる食屍鬼を無力化する準備を整えた。
ラミーナがライカの前に立った。切れ長の目に、迷いはなかった。
「ライカ様。わたしたちが城内の敵を食い止めます。ライカ様はエルザ王女やベアトリクスさんと共に、地下室を守ってください」
リューネットもラミーナの隣に並んだ。メガネを押し上げ、先ほどまでの気落ちした姿はどこにもなかった。
「転移術の発動まで、この城は一歩たりとも渡しません。それが、わたしたちにできることです」
ライカは二人の顔を見つめた。ラミーナの度胸のある瞳と、リューネットの静かな決意。傭兵たちもまた、それぞれの武器を構えて二人の背後に並んでいた。誰一人として、逃げ出す気配はない。
彼らは知っている。この城に退路はないことを。崖の上の城は、守り切れなければ全滅する地形でもある。それでも、誰も退かない。ヴェアヴォルフ同胞団の兵士たちは、最初からその覚悟で来ていたのだ。
「ラミー。リューネ。あなたたちの覚悟は分かったわ」
ライカの声が、わずかに震えた。総帥として、部下に死地を任せることの重さを噛みしめている。だが、ライカもまた覚悟を決めていた。
「必ず、転移術を成功させる。あなたたちが稼いでくれた時間を、無駄にはしない」
ラミーナが口元に笑みを浮かべた。不敵でありながら、清々しい笑みだった。
「お任せください。ドラコちゃんの城ですからね。守りがいがあります」
リューネットも小さく頷いた。そして、二人は踵を返した。傭兵たちを率いて、廊下の奥へと消えていく。城門の向こうから、吸血鬼たちが扉を叩く音が、地鳴りのように響いていた。
ライカは二人の背中を見送った。狙撃銃を握る手に、力を込める。
ヴェアヴォルフ同胞団の傭兵たちは、この戦いで命を懸ける覚悟を決めている。ならば、ライカもまた、全てを懸けなければならない。
振り返り、地下室への階段に向かった。




