第102話 魔王城防衛戦
地下室は冷たかった。
石造りの階段を下りた先に、広い部屋が広がっていた。天井は高く、壁には古い魔術灯が並んでいるが、その大半は光を失っている。わずかに生き残った灯りが、部屋の中央を薄く照らしていた。
部屋の床一面に、魔術式が刻まれていた。
複雑な紋様が幾重にも重なり、円を描いている。線の一本一本が正確に彫り込まれ、長い年月を経てもなお鮮明に残っていた。ドラコが住んでいた頃に刻まれたものだ。これが、ヴェンツェル王国の宮殿に繋がる転移術の魔術式。
ベアトリクスは魔術式の中央に立った。石の冷たさが靴越しに伝わってくる。深く息を吸い。目を閉じた。
体の奥に意識を向ける。あの力を呼び覚ますために、レイラの元で覚醒した時の感覚を思い出す。大切な人を守りたいという想い。エルザの笑顔。ドラコの背中。ターリンガで命を懸けた兵士の涙。アビゲイルの「頼んだよ」という声。
心臓が、一際強く脈打った。
血液が全身を巡る。沸騰するような熱さが、体の芯から広がっていく。右肩から竜の翼が伸び、右腕が赤い鱗に覆われていく。額の両側から角が突き出た。紅い瞳が更に深い紅に染まり、瞳孔が細く鋭くなる。
ロード。吸血鬼の王の力。
魔術式が反応した。床に刻まれた紋様が淡い光を放ち始める。ベアトリクスの魔力に呼応するように、線の一本一本が脈動している。光は微弱だが、確かに灯った。
だが、これでは足りない。帝国からヴェンツェル王国までの距離を飛ぶには、途方もない魔力が必要だ。今の魔力の注ぎ方では、魔術式が完全に起動するまでに相当の時間がかかる。
「ベアトリクス。無理はしないで。焦らず、ゆっくり魔力を注ぎ込んでいきましょう」
傍にいたライカが声をかけた。ベアトリクスは頷いた。急いで魔力を解放すれば、体が持たない可能性がある。時間はかかるが、着実に魔術式を起動させていくしかない。
エルザがベアトリクスの前に立った。
「ベアト。わたくしはここにいるわ」
それだけ言って、魔術式の外側に腰を下ろした。ベアトリクスが魔力を注ぎ込む間、傍を離れないつもりだ。ベアトリクスは微かに笑った。姫様がいてくれる。それだけの、力が湧いてくる。
広間に戻ったライカは、テーブルの端に腰を下ろした。
ポケットから一冊の手帳を取り出す。ドラコの日記だ。ドラコが日記にライカへの言葉を綴るように、ライカもまたこの手帳にドラコに向けて日記を書いている。同じ体にいながら直接会話ができない二人にとって、文章だけが唯一のつながりだった。
ペンを手に取り、書き始めた。この城に来たこと。エルザとベアトリクスに会えたこと。日記で読んでいた以上に素敵な子たちだったこと。ベアトリクスが地下室で転移術の魔術式に挑んでいること。もうすぐヴェンツェル王国に向かうこと。そして、あなたの帰る場所を必ず守るということ。
一つ一つの出来事を丁寧に綴っていく。いつかドラコが目を覚ました時、この日記を読んでくれる。それを信じて、ライカは書き続ける。
最後の一文を書き終え、ライカはペンを置いた。手帳を閉じ、ポケットにしまった。
城の一階、倉庫の扉をレオンが開けた。
埃っぽい空気が流れ出す。倉庫の中は広く、壁際に武器架や木箱が並んでいた。剣、槍、弓、盾。様々な武器が整然と収められている。ドラコが集めていたものか、あるいはもっと古い時代からここにあったものか。いずれにせよ、かなりの備蓄だ。
レオンは倉庫の奥へ進んだ。目当ての物がある。この城に来た目的の一つだ。
倉庫の最奥、壁に掛けられた布の下に、それはあった。布を剥ぐと、黄金の輝きが薄暗い倉庫を照らした。
大剣だった。刀身が黄金色に輝いている。装飾ではない。刃そのものが黄金の光を放っているのだ。柄は黒革で巻かれ、鍔には精緻な紋様が施されている。見た目の華やかに反して、持ち上げた時の重量感は実戦向きのそれだった。
レオンはこの剣を知っていた。かつてドラコと戦った時、振るっていた剣だ。魔王の剣。黄金に輝く刃は、あの決戦の日にも同じ光を放っていた。
レオンは黄金の大剣を背中に担いだ。今まで使っていた大剣を壁に立てかけ、代わりにこの剣を選ぶ。魔王の剣を勇者が振るう。皮肉な組み合わせだが、今はそれが最善だった。
倉庫を出た時、廊下を傭兵が走ってきた。息を切らしている。
「レオン様! 城の東側から敵の軍勢が接近しています!」
レオンの目が鋭くなった。
城への上から見下ろすと、崖の下に繋がる街道を黒い影の群れが埋め尽くしていた。
吸血鬼たちだ。一〇〇や二〇〇以上の数。その後方には食屍鬼の大群が続いている。財団の軍勢が、魔王城を発見したのだ。ターリンガから追撃してきたか、あるいは最初からこの城が目標だったのか。
レオンは城壁の上に立ち、周囲を見渡した。傭兵たちが既に配置についている。城壁の上に弓兵と狙撃兵、城門の両脇に近接戦の傭兵たち。ライカの指示で事前に防衛陣形が組まれていた。
「敵を城に近づけさせるな。罠の範囲に入るまで待て。オレの合図で攻撃を開始する」
レオンの指示が飛んだ。傭兵たちは無言で頷く。
吸血鬼の軍勢が崖を登り始めた。跳ね橋は既に上げてある。正面から攻めるには、崖の斜面を登って堀を越えるしかない。だが、吸血鬼たちは躊躇なく崖に取りついた。人間の軍勢なら攻略に何日もかかる地形を、吸血鬼の身体能力で強引に突破しようとしている。
先頭の吸血鬼たちが崖の中腹に差しかかった時、レオンが右手を上げた。
「今だ」
崖の斜面に仕掛けられていた罠が一斉に作動した。岩が転がり落ち、隠されていた落とし穴が開き、地面に埋め込まれた銀の杭が突き出す。先頭の吸血鬼たちが次々と罠に嵌り、崖の下へ転落していく。城壁からは矢と銃弾の雨が降り注いだ。
だが、吸血鬼たちは退かなかった。
罠で倒された仲間の体を踏み越え、次の吸血鬼が崖を登ってくる。銀の杭に貫かれた者の上を、別の者が乗り越えていく。恐怖がない。痛覚はあるだろうが、本能的な撤退判断が欠落している。人間の軍隊なら、この被害で退却を始めるはずだ。だが、吸血鬼たちは一体たりとも後退しなかった。
「弾丸を節約しろ。心臓を狙え。一発で仕留められない射撃は弾の無駄だ」
レオンが傭兵たちに指示を飛ばした。弾丸には限りがある。長期戦になれば、弾薬の枯渇が致命的になる。
ライカが城壁の上に姿を現した。狙撃銃を構え、照準器を覗き込む。長い白髪が夜風に揺れた。
「わたしも援護するわ」
引き金を引いた。銃声が夜に響く。崖の中腹を登っていた食屍鬼の一体が、頭部を撃ち抜かれて崩れ落ちた。続けてもう一発。吸血鬼が灰になる。ライカの狙撃は正確だった。一発も外さない。照準器越しに捕えた標的を、確実に仕留めていく。
傭兵たちの矢と銃弾、崖の罠、ライカの狙撃。三重の防衛線が吸血鬼の軍勢を阻んでいた。崖の下には灰と残骸が積み重なり、それでも後続の吸血鬼たちは休むことなく登り続けている。
だが、防衛線は持ちこたえていた。崖という地形の優位が、数の不利を補っている。この調子なら、ベアトリクスが魔術式を起動させるまでの時間を稼げるかもしれない。
レオンがそう考えた瞬間だった。




