第100話 魔王の居城
馬車が丘の上に差しかかった時、それは唐突に姿を現した。
黒い城だった。
切り立った崖の上に、それは聳えていた。夜空に溶け込むような漆黒の石壁。四つの尖塔が天を突き、城壁の上には風化した旗が揺れている。周囲を深い堀が囲み、跳ね橋が一本だけ架かっていた。崖と堀に守られた城は、自然の地形そのものが天然の要塞となっている。攻めるには険しく、守るには理想的な立地だ。
魔王城。かつてドラコが住んでいた城。
エルザは馬車の窓から城を見上げた。あの陽気な魔王が、ここにいたのだ。暗く重厚な城の佇まいは、ドラコの軽やかな人柄とはかけ離れている。だが、この城が長い年月を耐え抜いてきた堅牢さには、ドラコの芯の強さと通じるものがあった。
ベアトリクスもエルザの隣で城を見つめていた。ドラコの城。ドラコが帰る場所。あの人がいつか戻ってくる場所が、ここなのだ。
レオンは窓の外を一瞥しただけだった。だが、その目に複雑な光が過ったのを、エルザは見逃さなかった。かつて魔王として恐れられた者の居城。レオンにとって、この城はかつての敵の本拠地でもある。
跳ね橋の手前で馬車が止まった。橋の両脇に武装した傭兵たちが立っている。馬車を見て警戒の構えを取ったが、御者が合図を送ると武器を下ろした。
城門をくぐると、中庭が広がっていた。広い敷地に、傭兵たちが忙しく動き回っている。武器の手入れをする者、城壁の見張りに立つ者、負傷者の手当てをする者。城全体が、戦時の拠点として機能していた。ライカの指示で、あらかじめ防備を整えていたのだろう。
馬車から降りたレオンに、傭兵の一人が駆け寄った。
「レオン様。ライカ様が城の中でお待ちです」
レオンは頷き、城の中へ向かった。エルザとベアトリクスも後に続く。
城の内部は、外観から想像するほど暗くはなかった。壁には魔術灯が灯り、廊下の両脇には書棚や武器架が並んでいる。古い城だが、よく手入れされていた。ドラコがいなくなった後も、誰かがこの城を守り続けていたのだろう。
広間の扉を開けた時、エルザの足が止まった。
広間の中央のテーブルに地図を広げ、一人の女性が立っていた。
白い長髪。青白い肌。黒い制帽。ドラコと同じ姿だった。だが、纏う空気が違う。ドラコの飄々とした気配はなく、もっと柔らかい。瞳の色が紅ではなく、深い瑠璃色をしている。
ライカだった。
ドラコの体に宿るもう一つの人格。ドラコの配偶者。アビゲイルから話には聞いていたが、エルザとベアトリクスにとっては「知っているけれど会ったことのない人」だった。
ライカが顔を上げた。瑠璃色の瞳がレオンを捉え、次にエルザとベアトリクスに向けられた。
その瞬間、ライカの表情が変わった。穏やかだった目元が綻び、安堵と喜びが入り混じった笑みが広がった。
「勇者様。無事だったのね。それに……」
ライカの視線がエルザに留まった。瑠璃色の瞳が、エルザの顔を真っ直ぐに見つめている。
「あなたがエルザ王女ね。ドラコの日記で、ずっと読んでいたわ」
声が温かかった。初めて会うはずなのに、まるで昔からの知り合いのように。ドラコの日記を通じて、ライカはエルザのことをよく知っていたのだ。
「ライカさん……ですか」
エルザの声が震えた。目の前にいるのは、ドラコと同じ体を持つ人。ドラコの姿がそこにある。帽子の下の白い髪も、青白い肌も、あの人と同じだ。ドラコと別れてから、ずっと会いたかった。ドラコ本人ではないけれど、ドラコの一番大切な人がここにいる。それだけで、胸が熱くなった。
「はい。ドラコの妻のライカよ。やっと会えたわね、エルザ」
ライカが微笑んだ。その笑顔は、ドラコとは違うが、同じ温かさを持っていた。
ベアトリクスも一歩前に出た。
「わたしはベアトリクスです。エルザ様のメイドを務めています。ドラコさんには、とてもお世話になりました」
ベアトリクスが深く頭を下げた。ライカはベアトリクスを見て、目を細めた。
「ベアトリクス。日記にたくさん書いてあったわ。ドラコがとても信頼している子だって」
ドラコが、自分のことを日記に書いていた。しかも、信頼していると。ベアトリクスの目に涙が浮かんだ。ライカはベアトリクスの頭にそっと手を乗せた。母親が子供にするような、自然な仕草だった。
「ありがとう。ドラコの傍にいてくれて」
その一言に、ベアトリクスは堪えきれず涙を零した。エルザもまた、目元を押さえていた。ドラコの姿をした人から、ドラコの声とは違う優しい声でそう言われると、胸の奥に何かが溢れ出してしまう。ドラコはここにいる。でも、ここにいない。その矛盾が、二人の涙を止められなくさせた。
ライカはそんな二人を、静かに見守っていた。ドラコの日記を通じて、この子たちがどれほどドラコを慕っているかは知っている。会えて嬉しいと同時に、ドラコに会えない切なさが込み上げるのだろう。ライカ自身も、同じ気持ちだった。同じ体にいながら、愛する人と直接言葉を交わすことができない。その切なさは、ライカが一番よく知っている。
だが、感傷に浸る時間は長くなかった。
ライカの表情が切り替わった。穏やかな笑みが消え、戦場を指揮する総帥の顔になっている。テーブルの上の地図に目を落とし、レオンに向き直った。
「状況を伝えるわ。財団の軍勢はターリンガだけでなく、帝国全域に展開している。兄弟たちの報告では、主要な都市や駐屯地が同時に襲撃されているわ」
レオンは頷いた。自身が分析した通りだった。
「それと、勇者様。あなたにまだ伝えていないことがある」
ライカの声が低くなった。
「財団は怪物を生み出しているわ。機械人形と呼ばれる、金属と歯車で構築された人工的な兵器。感情はなく、命令通りに動くだけの存在。わたしたちはリファランでこれと交戦して、かなりの苦戦を強いられた」
「機械人形か。聞いたことがない」
「それだけじゃないの。機械人形は試作段階に過ぎなくて、財団の本当の目的は細胞を一から作り出して、完全な怪物を生み出すことにある。機械の弱点を持たない、生身の体と同じ柔軟性を備えた存在。状態異常への完全耐性を持つから、毒も効かない、精神術も効かない。吸血症にすら感染しない。理論上は、あらゆる攻略法が通じない完全な兵器よ」
レオンの目が鋭くなった。エルザとベアトリクスも息を吞んだ。吸血鬼の軍隊だけでも十分すぎる脅威なのに、その上にそんなものまで。
「吸血鬼の軍隊だけでなく、そんなものまで作っていたのか」
「ええ。まだ完成はしていないようだけれど、遠くはないはず。もしかしたらすでに完成しているかもしれない。財団の計画は、わたしたちが想像していたよりも遥かに大きいわ。だから、早く動く必要があるの」
ライカは地図の上のヴェンツェル王国を指差した。
「わたしがこの城に来たのは、エルザたちと合流して、すぐにヴェンツェル王国に向かうため。この城の地下室に、転移術の魔術式が残されているの。ドラコが住んでいた頃のもので、発動すればヴェンツェル王国の宮殿に直接移動できるわ」
転移術。エルザは息を吞んだ。セクレタリア帝国からヴェンツェル王国まで、通常なら何日もかかる距離だ。それを一瞬で移動できる魔術がこの城にあるという。




