99.正義を破り捨てるもの
研究施設の薄暗い尋問部屋となった研究室を満たしていた沈黙を、シンジュ博士の震えた声が破った。
「平和のためだと……ならお前たちが今やっていることのどこに正義があるんだ……」
項垂れたままの博士の肩が細かく震える。
その姿を見下ろしながら、マルティナはゆっくりと歩み寄り、硬い声で返す。
「正義? 博士、何を甘いことを抜かしているんだ。よく考えてみろ。アークラインとバルナスが本気で戦争を始めればどうなる?」
マルティナの瞳は氷のように冷たく、しかしどこか燃え上がるような情熱も秘めていた。
「人を殺し、殺される。多く殺した者が称えられ、少しの判断が国を傾ける。そんな状況で正義だの倫理だというものは……たちまち吹き飛ぶのだよ」
「違う!」
博士は小さく叫んだ。
しかしその声は弱々しく、すぐにかき消される。
「違うものか!」
マルティナの鋭い一喝で空気が震えた。
「現に──エルディア大戦。あの戦争の闇の中で、意志の鋲や蒸気の心臓が生まれた。我々のトップから渡された記録を読んだとき私は思ったよ……なんて残酷な技術だと」
マルティナは博士へ詰め寄り、その顔に唾を吐きかけた。
「そんなものを作り出したレオナールや貴様が、正義などと口にするな!」
博士は唇を噛み、静かに顔を上げた。
「だから早く蒸気の心臓の精製法を教えろ。蒸気の心臓を手に入れれば我々アークラインは今度こそバルナスを滅ぼせる」
マルティナの声は揺らぎもなく、ただ“事実”を述べるようであった。
しかし博士は、その言葉にかすかな笑みすら浮かべた。
「滅ぼせるかあ……。今ので……私がもし“冗棄”の心臓の精製法を知っていたとしても、貴様らには教える訳にはいかなくなった」
静かながらも力のある声音だった。
「そもそも、レオナールも私も……敵を殺すために研究をしていたわけではない」
博士の目は強くマルティナを睨み返す。
「私たちは、味方を…この国や人々を守るために研究していたんだ!」
博士は声を震わせながらも語気を強めた言葉を続ける。
「あの時代に戦った者たちはこの国の守り手として最後まで戦い抜いた勇敢な者たちだ! 相手を滅ぼすことばかりを考える貴様らとは根本が違う!」
言い終えると、博士は力なく笑った。
しかしその笑みは、マルティナや野薔薇の三人を沈黙させるほどの重さを持ってはいなかった。
「ふふふ……守るため、か」
まるで博士の発言を小馬鹿にするような目でマルティナは見下す。
「ははははは! 聞いたか、ダイアナ、ゾーイ、セレニティ!」
野薔薇の三人は同時に笑い出す。
「博士〜? 綺麗事言っても、博士たちがやったことが残酷なのは変わらないよぉ?」
「そうだ……じ、自己弁護は見苦しいぞ」
「結局のところ、博士も私たちも同じ穴のムジナですわ」
三人が笑い終わると、マルティナは冷たい視線を博士へ戻す。
「だとさ、博士。私たちはそんな話を聞きたいんじゃない」
そして軽く手を振った。
「おい、もう一度やれ。今度は圧力をもっと上げてみろ。今度こそ蒸気の心臓ができるかもしれんぞ」
「セレニティお姉様! 今度は私がやりたーいっ!」
ダイアナが無邪気に両手を挙げる。
「く、くそ!!」
男性研究員が拘束具ごと床を滑らされ、ダイアナに引きずられていく。
「頼む……もう……やめてくれ……」
博士は再び俯き、声を震わせる。
「シンジュ博士!!」
引きずられながら、研究員が博士の名を叫ぶ。
「博士……絶対に屈しないでください。きっと……こいつらは、用が済んだら博士も殺す……そんな連中ですよ」
研究員のその言葉に博士は顔を歪めた。
「エーテルの生みの親……シンジュ・ノーピアス博士は、こんなところで死んじゃいけない。博士の娘さん──パールさんだって、きっと——」
そこまで言った瞬間、ダイアナが研究員を強引に圧縮炉へ押し込み、その扉を閉じた。
博士は声にならない声を漏らし、ただその様子を見つめることしかできなかった。
「さあ! はっじめるよ〜っ☆」
ダイアナが装置の起動ボタンへ手を伸ばす。
カチリと軽い音が鳴り、部屋の空気が再び重く変わった──。




