96.ククルカンの風に立つ
飛行船メンデルスゾーンは、切り立った断崖のあいだをゆっくりと滑るように降下し、ククルカン飛行場の着陸路へ静かに船体を預けた。
車輪が大地へ触れた瞬間、小さな衝撃が船内を揺らす。
乾いた風が谷底から吹き上がり、赤茶けた岩肌に照り返された熱気が、開きかけた扉の隙間から流れ込んできた。
「……着いたぞ」
操縦席で振り返ったタカカゲが、どこか誇らしげに笑う。
やがて船体の扉が開き、軋んだ音を立てながらタラップが降ろされた。
シアンたちは順に飛行船を降り立つ。
乾いた土を踏みしめる感触は、アルディスとはまるで違っていた。
吹き抜ける風は熱を帯びているのに、不思議と肌を刺すような鋭さがあり、渓谷特有の荒々しい空気が旅人たちを迎え入れる。
見上げれば、巨大な断崖が空を切り取るようにそびえ立ち、その間を風だけが自由に駆け抜けていた。
「タカカゲさん。ここまで、本当にありがとうございました」
シアンはタカカゲへ向き直ると、深々と頭を下げた。
「礼を言うのは俺の方さ」
タカカゲは照れくさそうに笑い、肩をすくめる。
「君たちがメンデルスゾーンを直してくれなかったら、俺はもう二度と空へ戻れなかった。本当に感謝してるよ」
その言葉を聞き、シアンたちは自然と顔を見合わせた。
この二日間で知ったのは、飛行船の構造でも操縦技術でもない。
タカカゲという男が、誰よりも空を愛しているということだった。
「……ただ」
タカカゲは笑みを消し、飛行場の奥へ視線を向けた。
そこには、一隻の軍用飛行艇が静かに駐機している。
漆黒の船体は朝日を鈍く反射し、船腹に刻まれたアークライン帝国軍の紋章だけが、いやに鮮明に目へ映った。
「帝国軍か……」
低く呟いた声に、先ほどまでの穏やかさはない。
「最近はバルナスとの情勢も悪くなってる。軍の連中も随分と殺気立ってるからな。なるべく関わらない方がいい」
「ああ、分かった」
シアンは短く頷いた。
「君たちは、しばらくククルカンにいるのか?」
「どうだろう……。用事がどれくらいで終わるか次第かな」
「そうか」
タカカゲは頷くと、飛行船へ目を向ける。
「なら俺はいったんアルディスへ戻るよ。飛行場に通信設備があるから、帰る時は連絡してくれ。また迎えに来る」
「ありがとうございます」
ルシアが丁寧に頭を下げると、タカカゲは少し照れたように笑った。
「いいんだ。俺は君たちのおかげで、また空を飛べるようになったんだから」
そう言って飛行船へ乗り込もうとした彼は、タラップを半ばまで上ったところでふと足を止める。
振り返ったその顔には、旅の始まりと同じ、少年のような笑顔が浮かんでいた。
「シアンくん! ルシアちゃん!」
二人が顔を上げる。
「次に乗る時は、ちゃんと空を見てくれよ!」
渓谷を吹き抜ける風に声を乗せながら、タカカゲは力いっぱい叫んだ。
「今度は朝焼けじゃない。俺と親父が何より好きな、最高の青空を見せてやる!」
その言葉に、シアンは思わず笑みを浮かべる。
「ああ。帰りはちゃんと見るよ!」
「はい! 約束です!」
ルシアも満面の笑みで手を振った。
タカカゲは満足そうに頷くと操縦席へ戻り、やがて船体から蒸気が勢いよく噴き上がる。
巨大なプロペラが回転を始め、飛行船はゆっくりと浮かび上がった。
風を受けたメンデルスゾーンは大きく旋回し、朝の青空へ向かって静かに高度を上げていく。
三人は、その姿が渓谷の彼方へ消えていくまで、いつまでも手を振り続けていた。
やがて飛行船が小さな点となって見えなくなると、シアンは静かに息を吐き、ルシアへ向き直る。
「さて……研究施設へ向かう前に」
「え?」
戸惑うルシアの頭へ、シアンは自分のキャスケットをそっと乗せた。
少し大きめの帽子が、彼女の金色の髪をすっぽりと隠す。
「そのままじゃ目立ちすぎる。軍の連中に顔を見られたら厄介だからな」
「そっか! お姉ちゃんは元帥の娘だから、顔を見られたらすぐにバレちゃうもんね!」
ルシアは帽子のつばへ触れ、小さく瞬きをした。
「……ありがとうございます」
その声はどこか嬉しそうだった。
「俺の帽子だから、ちょっと煤で汚れてるけどな」
照れ隠しのように笑うシアンへ、ルシアは首を横に振る。
「そんなこと気になりません。大切に使わせてもらいます」
帽子を被り直した彼女は、少しだけ頬を赤く染めながら微笑んだ。
その様子を見ていたカイも、ほっとしたように笑う。
「これなら少しは安心だね!」
「ああ」
シアンは二人を見回し、大きく頷いた。
「二人とも、俺から絶対に離れるなよ」
目指す先は、ククルカンにあるエーテル研究施設。
そこで待つのは、エーテル研究の第一人者であり、パールの父でもある研究者との邂逅。
だが、この地には帝国軍も足を踏み入れている。
ただ目的地へ向かうだけで済む旅ではないことは、三人とも分かっていた。
渓谷を吹き抜ける風が、帽子のつばを揺らし、衣服を大きくはためかせる。
三人は無言のまま歩き出した。
その足取りには迷いはない。
待ち受ける嵐を知りながらも、その中心へ踏み込む覚悟だけを胸に抱いて。




