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蒸気の心臓─機工幻想譚─  作者: らふぃお
第3章、激突ククルカン
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95. 決意の空路

アークライン帝国の空を、一隻の飛行船が静かに滑るように進んでいた。


鋼鉄と木材を組み合わせた船体は夜明け前の蒼を映し、巨大な気嚢は朝風を受けてゆるやかに揺れている。

船体を支える無数のワイヤーが微かに軋み、規則正しい機関音だけが静かな空へ溶け込んでいた。


飛行船メンデルスゾーン


アルディスを飛び立って二日。

目的地であるククルカン渓谷は、もう目前まで迫っていた。


操縦席に座るタカカゲが操縦桿を握ったまま前方へ目を細め、穏やかな声で言った。


「さあ、もう少しでククルカンの飛行場だ」


その一言が、どこか張り詰めていた船内の空気をわずかに揺らした。


「……そろそろか」


シアンは小さく息を吐き、窓の外へ視線を向ける。


その隣ではルシアも黙ったまま景色を眺めていた。

膝の上で握り締められた拳には、無意識のうちに力が入っている。


アルディスを発つ直前、アマテラスから聞かされた話。


帝国軍がククルカンへ向かったという報せ。


もし帝国軍がエーテルと蒸気の心臓の関係にまで辿り着いているのなら――。


ルシアが恐れていた最悪の未来は、すでに動き始めているのかもしれない。


重苦しい沈黙だけが、船内を静かに満たしていた。


「もぉー!」


突然、明るい声が響く。

空気を吹き飛ばしたのはカイだった。


「兄貴もルシア姉ちゃんも、さっきからずっと難しい顔してるじゃん!」


思わずシアンとルシアが顔を上げる。


その様子を見て、タカカゲは苦笑しながら口を開いた。


「悩むのは悪いことじゃない」


穏やかな声で二人にそう言うと、真っ直ぐ空を見つめた。


「でも、せっかく空を飛んでいるんだ。少しだけ外を見てみないか?」


二人は言われるまま窓へ目を向けた。


その瞬間――思わず息を呑む。


遥かな地平線から、一筋の光がゆっくりと顔を覗かせていた。


夜の藍色に包まれていた世界は、黄金、橙、紅へと少しずつ色を変え、空と大地の境界さえ溶け合っていく。


切り立った断崖も。


深い渓谷も。


朝霧をまとった森も。


すべてが柔らかな光に包まれ、新しい一日を迎えようとしていた。


地上からでは決して見ることのできない景色。

空を飛ぶ者だけに許された、雄大な世界がそこには広がっていた。


「……綺麗」


ルシアがぽつりと呟くその声は、まるで夢を見ている子どものように柔らかかった。


「私……目の前のことばかり考えていて、こんな景色があることも忘れていました」


少し照れたように笑い、タカカゲへ頭を下げる。


「すみません」


タカカゲは小さく笑って首を振った。


「謝ることなんてないさ」


そう言って操縦桿を握る手に、そっと力を込める。

朝日に照らされた横顔には、飛行船乗りとしての誇りが滲んでいた。


「……俺が初めて空を飛んだ時さ」


ぽつりと語り始める。


「この景色を見て思ったんだ。もっとたくさんの人に、この空を見てもらいたいって」


ゆっくりと紡がれる言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。


「旅人でもいい。子どもでも、お年寄りでもいい。恋人同士でも、家族でもいい。」


タカカゲは前を向いたまま、少しだけ笑う。


「みんなが笑いながら空を飛んで、綺麗だなって同じ景色を見られる時代が来たら、きっと素敵だろ?」


その笑顔には、打算も野心もなかった。

ただ、人を笑顔にしたいという純粋な願いだけがあった。


「……それが俺の夢なんだ」


船内は再び静かになった。

だが、その静けさは先ほどまでの重苦しいものとは違う。


誰もが、タカカゲの言葉を胸の中で噛み締めていた。


シアンは朝焼けに染まる空を見つめながら、ゆっくりと拳を握る。


もし蒸気の心臓が軍の手に渡れば、この景色も変わってしまう。


人々の夢も。


未来も。


タカカゲが命を懸けて叶えようとしている願いさえ、戦火の中へ飲み込まれてしまう。


それだけは、絶対に嫌だった。


「……タカカゲさん」


シアンが静かに口を開く。


「こんな景色、俺……初めて見たよ」


朝日に照らされた横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「だから守るよ」


その声には迷いがない。


「タカカゲさんのの夢も。この国のみんなの夢も」


タカカゲは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから照れくさそうに笑った。


「ははっ。そんな大げさな」


そう言いながらも、その笑顔はどこか嬉しそうだった。


シアンはルシアとカイへ振り返る。


「二人とも」


二人は同時にシアンを見る。

その瞳に宿る覚悟を見た瞬間、もう言葉の続きを待つ必要はなかった。


「絶対に守ろう。」


短い言葉だった。

けれど、その一言には、何よりも強い意志が込められていた。


カイは勢いよく拳を突き上げる。


「もちろん!」


屈託のない笑顔が船内へ広がる。


「全部終わったらさ! 今度はグレンダさんも街のみんなも連れて、みんなで空を飛ぼうよ!」


その言葉にルシアも微笑み、胸へそっと手を当てた。


「はい」


先ほどまで胸を締め付けていた不安は、もうない。


「私も……誰かを守れる人になります」


その瞳には、確かな決意が宿っていた。


その時だった。


「見えてきたぞ」


タカカゲの声に、三人は再び前方へ目を向ける。


霧に包まれた渓谷の向こう側。


ククルカン飛行場がゆっくりと姿を現していた。


「……ん?」


タカカゲの表情が曇る。

飛行場の一角に、一隻の飛行艇が静かに停泊していた。


黒く塗装された船体。


朝日を受けて鈍く輝く金属。


そして船体に刻まれた紋章。


見間違えるはずもない。


アークライン帝国軍。

アマテラスの情報は、間違いではなかった。


シアンは静かにその機体を見据える。


驚きはない。胸にあるのは、ただ揺るがぬ決意だけだった。


「行こう」


その一言は静かだった。

それでも、誰よりも強い意志を宿していた。


「絶対に……軍の思い通りにはさせない。」


昇りきった朝日が四人の背中を優しく照らす。

夢を運ぶ飛行船は、その役目を終えようとしていた。


そして彼らを待つのは、夢を守るための新たな戦い。


ククルカン渓谷――その地で、物語は大きく動き始める。

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