94. 醜悪なる皇帝、美麗なる大将
玉座の間に張り詰める空気は、磨き上げられた大理石の床よりも冷たかった。
「皇帝陛下……今、なんと?」
どこか信じられないという声音で静かに尋ねるキースに、皇帝ブリック・アークラインはあくまで能天気な顔のまま首を傾げた。
「ん? バルナスとの戦争に勝利したあとは、他の隣国もまとめて攻め込むに決まっておろう。余の手中で一つにしてやるのだ、当然だろうキース?」
まるでなぜ当たり前のことを疑われるのかと言わんばかりの表情。
キースはどんどんと表情が暗く変わっていく。
「そ、そんな! その他の隣国とまで戦争を仕掛けてしまったら、アークラインは──」
ガレスが慌てて声を荒げるが、その懸念さえ皇帝は鼻で笑い飛ばす。
「そのための“蒸気の心臓”だろう? そうなのだろう、キース?」
問いかけというより、わざとらしく惚けた調子でキースを追い詰める声音。
ブリックの目は笑っているが、奥底に歪んだ欲望だけが濁っている。
「……ええ。皇帝陛下のお望みとあれば」
キースは微笑む。
だがその笑みには、どこまでも暗い影が差していた。
「……では報告は以上ですので、再び蒸気の心臓捜索の任へ戻ります。ガレス元帥殿、参りましょう。」
二人が退出へ向かおうとした瞬間。
「待て、ガレスよ!」
皇帝の甲高い声が響き、ガレスの背が硬直した。
「ルシアが一人旅に出たというのは本当なのか?」
「はっ……娘ルシアの行動は私も予想外のもので──」
「余の未来の妃だぞッ!!」
ブリックの声に、玉座の間がひやりと凍りつく。
キースの眉がわずかに動いた。
「勝手に旅などされて傷ものにでもなったらどうする! 余があれほど気に入っているというのに!」
言葉の端々に、粘つくような執着が滲み出ている。
そして──その顔は醜悪だった。
唇は塗り固めた脂のように光り、頬はだらしなく歪み、瞳はいやらしい欲望で濁っている。
「申し訳ございません! しかし娘の行動は私も──」
「黙れ!」
怒声とともにブリックは玉座の肘掛けを拳で叩いた。
「余のルシアに何かあれば、貴様の首を切り落としてやる! お前がその地位に居られるのは、あの娘のおかげでもあることを忘れるでない!」
ガレスは顔を伏せ、その影の下で歯ぎしりをしていた。
(くそ……誰か……誰か、この男を止められないのか……)
「ルシアは成人したら必ず余の妻に迎える! ああ……美しいルシア……早く余の妃に……」
陶酔したように呟く皇帝の声が、玉座の間の空気を吐き気がするほど濁らせる。
「は、はい……皇帝陛下……。我が娘をお気に召していただき、光栄です……」
ガレスは絞り出すように答えたが、その声は震えていた。
「それでな! 結婚式は──」
「おっと」
そこでキースが割って入った。
いつもの柔和な笑顔を浮かべながら、しかし目の奥は氷のように冷たい。
「これは私が聞いてはいけない話のですね。先に失礼いたします」
そう言って静かに退室する。
廊下へ出た瞬間、キースの笑顔は霧が晴れるように消えた。
代わりに現れたのは、怒りと憎悪が混ざり合った暗い表情。
「……醜い豚め」
キースは誰もいない廊下を歩きながら、押し殺した声で呟く。
「最初は平和のためと言っていたくせに……やはり戦争を目の前にして本性を現したな」
靴音が冷たく響く。
「豚の皮を被った、さらに醜い豚が……」
キースは血が滲むほど拳を握りしめた。
「皇帝……貴様も結局あの国と同じ。力を得れると分かった途端、傍若無人に振る舞う腐りきったゲス野郎だ」
歩みを止めたキースの目には、強い決意の光が宿っていた。
「元帥……貴方も、貴方の娘も……私が救おう」
窓の外から見える帝都の景色、そしてその遥か向こうを鋭い視線のまま睨みつける。
「バルナス共和国は滅ぼす。そして、この国の首もすげ替えねばならない。」
キースは静かに拳を握りしめた。
「私が──バルナスもアークラインも破壊し、新しき国家の王となる」
そして誰もいない石造りの廊下で、誰にも聞こえぬ声で誓う。
「”あの人"の願い……平和のために。私は武力と破壊をもって、この世界を制する」
その決意は、皇帝の狂気とは異質の、冷たい炎だった。




