93. 帝国の蠢動
アークライン帝国王城——。
豪華なシャンデリアが照らす皇帝の間は、静寂とは裏腹に粘つくような熱気がこもっていた。
王朝の歴代皇帝たちを描いた肖像画が天井近くまで並び、その中央で玉座だけが異様に浮かび上がっている。
その玉座に、肉が垂れ下がったような体を押し込むように座っている男がいた。
ブリック・アークライン。
かつて英明と謳われた先々代皇帝バスタード・アークラインの孫にして、バスタードから受け継いだアークライン帝国の平和を守り続けた父デュオル・アークラインを自らの手で暗殺し、若くして玉座を奪い取った男。
肥え太った頬には脂汗が浮かび、首元には重厚な王冠が小さく見えるほど肉の段が重なっている。
男の濁った目は怒りに血走り、玉座の肘掛けを握る指はソーセージのように太い。
「おい、蒸気の心臓はまだ手に入らないのか!?」
声を張り上げた瞬間、皇帝の間にこだまする怒号が壁の紋章を揺らした。
ブリックの顔は、生肉のように真っ赤になっている。
玉座の下で控える男が、汗を伝わせながら口を開いた。
「皇帝陛下……蒸気の心臓なのですが、アルディス地下深くに封印していたはずが――消えていたとの報告が……」
帝国軍元帥でありルシアの父、ガレス・ハートランド。
厳格な軍服に身を包むその姿は威厳を帯びているが、いまは皇帝の怒りに怯え、縮こまるように立っていた。
深い皺が刻まれた眉間には苦悩が滲み、汗がこめかみを伝う。
「ええい! 言い訳など聞きたくないわ!」
ブリックの唾が飛び、床に濡れた跡を残す。
「早く余のところへ持ってこい! バルナスの腐れ共を叩き潰すには、あれが必要なのだぞ!?」
ガレスは慌ててひざまずいた。
「申し訳ございません! 我々軍も捜索の手を広げておりまして……!」
ブリッツは鼻を鳴らし、脂ぎった頬を揺らした。
その顔は、怒りというより“心臓を早く手にしたい”という欲望で濁っている。
「……しかし陛下」
ガレスが恐る恐る続ける。
「本当にバルナスと戦争をされるおつもりなのですか? 私は和平交渉の再開を――」
「まだそんなことを抜かすのか、ガレス!」
ブリックは怒鳴り、玉座を叩いた。
「現にバルナスの奴らは我が領海を犯しておる! 貴様のような腑抜けの言葉など聞きとうないわ!」
たしかに近年、バルナス共和国は帝国の領海に度重なる侵犯を行っている。
だがガレスは、戦争という最悪の選択を避けたいと願っていた。
そのとき――
皇帝の間の扉がゆっくりと開いた。
黄金の柱に反射した光が、一人の男の輪郭を浮かび上がらせる。
「遅れて申し訳ありません、皇帝陛下」
オレンジ色の長い髪を肩まで流し、凛とした瞳を持つ男。
その姿は武人というより、美しく磨かれた刃を思わせた。
「キース! ようやく来たか!」
ブリックの脂の乗った顔が、媚びた笑みへと変わる。
「待ちくたびれたわ!」
帝国軍大将、キース・バレンタイン。
蒸気の心臓の存在を皇帝に吹き込み、アークライン帝国軍を率いてバルナス共和国を滅ぼそうと絵を描いた張本人。
その裏には彼自身の思惑が渦巻いている。
キースは軽く頭を下げ、優雅に歩み寄る。
「ガレスと違って、お前は余を喜ばせてくれるからな」
ブリックが口角を吊り上げた。
「それで――蒸気の心臓はどうなっておる?」
キースは一歩前に出て、静かに言った。
「それがですね……もう元帥殿から伝えられたでしょうが行方不明のまま。しかし――」
ブリックの目に、期待という名の醜い欲が灯る。
「少将のマルティナが、心臓に関する手掛かりをなにか掴んだようでして。すでにククルカン渓谷へ向かっています」
「なんと……!」
ブリックは玉座から身を乗り出すほどに喜びを露わにした。
「やはりキース、お主だけが余を喜ばせてくれる!」
その横で、ガレスは悔しそうに唇をかむ。
するとキースは穏やかに微笑み、皇帝へ向かって言った。
「そんな事を言わないでください皇帝陛下。元帥殿も別の形で国に尽くしておられます。あまり責められますな」
「……すまん、キース」
ガレスは声を潜めて礼を言う。
その礼には、感謝と――理解できない恐怖が同時に宿っていた。
キースは、ほんの一瞬だけ口元に意味深な笑みを浮かべた。
ブリックは玉座に手を置き、体を震わせながら呟く。
「ふふふ……早く……蒸気の心臓を手に入れて……」
「ええ、そして必ずバルナス共和国を――」
キースが賛同の言葉を続けようとした瞬間。
「バルナスを支配したあとは、他の隣国もすべて攻め込むのだァァァ!!!」
ブリックの咆哮が、皇帝の間の天井を震わせた。
「…………は?」
玉座の下でその言葉を聞いたキースは一瞬何を言っているのか言わんばかりに眉をひそめた。
だがすぐに、何事もなかったように表情を整える。
そして、先程までの笑顔を顔から消しブリックを見つめていた。




