92. 禁断の残響──アークライン帝国史の影
蒸気の心臓。
その名は、アークライン帝国の歴史に刻まれた栄光の裏側。
そして、決して語られることのなかった最も深い闇の中で、今なお囁かれ続ける禁断の発明である。
それを知る者は少ない。
だが、知る者たちは口を揃えてこう語る。
あれは、人類が手にしてはならなかった力だった、と。
——時は、今から四十年以上前。
アークライン帝国とバルナス共和国が激突した大戦。
後に「エルディア大戦」と呼ばれるその戦いの中で、帝国は存亡の危機に立たされていた。
バルナス共和国の圧倒的な兵力。
高度な機動戦術。
そして止まることを知らない侵攻。
帝国軍の防衛線は次々と崩れ、国土は削られ、敗北の未来が誰の目にも見え始めていた。
その絶望の中で、一人の男が現れる。
レオナール・グレイン。
アークライン帝国史において、最も謎に包まれた天才。
その出生も、研究の全貌も、そして最後にどこへ消えたのかも、今ではほとんど記録に残されていない。
ただ一つ確かなこと。
彼が生み出した三つの発明が、帝国の運命を変えたということだけだった。
ひとつ――。
蒸気兵装。
それは、戦場における常識を覆した革新的な兵器だった。
従来の義肢とは異なり、神経系と直接接続することで、装着者の意思を瞬時に機械へ伝達する。
内部に組み込まれた鉱石〈コンドライト〉。
空気中の水分を吸収し、圧縮された蒸気を生み出すその機構によって、失われた四肢は再び戦う力を得た。
さらに武装機構を搭載することで、兵士たちは戦場で即座に新たな力を展開することが可能となった。
四肢を失った者たちは再び戦場へ戻り、“再起兵”と呼ばれるほどの戦果を挙げる。
そしてその技術は後に民間へと広まり、多くの人々へ新たな人生を与えることになる。
蒸気兵装。
それは、レオナールが生み出した最初の奇跡だった。
だが――。
彼の探求は、そこで終わらなかった。
ふたつ――。
意志の鋲。
それは、命そのものへ踏み込んだ禁断の技術。
肉体が戦場に耐えられなくなった重傷兵たち。
彼らの脳とオートマトンを接続し、精神だけを鋼の身体へ移す。
それによって生まれた存在。
鋲兵。
彼らは肉体を失いながらも、戦争が終わるその瞬間まで戦い続けた。
しかし、それは同時に、人間の尊厳を踏みにじる技術でもあった。
大戦終結後。
帝国はその存在を歴史から消し去った。
残された鋲兵。
研究資料。
そして禁断の技術。
すべては南部の広大なセルジュ砂漠に破棄された。
だが――。
レオナール・グレインが残した最後の発明は、それらすら遥かに超えていた。
蒸気の心臓。
意志の鋲によって残された肉体を、特殊な製法によって超圧縮することで生み出された異常なエネルギー結晶。
その力は、それを使った一つの動力炉だけで帝国全土を動かせるほどだったと言われている。
大戦当時。
蒸気の心臓から供給された莫大なエネルギーによって、蒸気兵装とオートマトンの生産速度は爆発的に向上した。
帝国は敗北寸前の状況から立ち上がり、バルナス共和国を撤退へ追い込む。
勝利を掴んだ。
だが――。
その力には、決して消えることのない代償があった。
蒸気の心臓。
それは、人間を“材料”として生み出された禁忌だった。
帝国は戦後、その存在を完全に隠蔽することを決定。
西方の海沿いにある街――アルディス機工特区。
その地下深くへ封印し、歴史の闇へ葬り去った。
誰にも知られることなく。
二度と使われることがないように。
……そう、願われていた。
しかし。
歴史とは、時として同じ過ちを繰り返す。
アークライン帝国とバルナス共和国。
二つの国家の関係は、再び緊張の時代へ向かっていた。
戦力差。
焦燥。
迫り来る戦争の足音。
そして帝国軍は、封印された禁断の結晶――蒸気の心臓を再び手にしようとしていた。
その動きを察知した組織がある。
帝国の平和を影から守る秘密組織。
《赤》。
彼らは一人の青年へ依頼を託した。
アルディスに住む青年。
シアン・クロウ=フィールド。
そして彼が働く何でも屋、スチーム・フィールドの主。
グレンダ・フィールド。
依頼内容は、ただ一つ。
――蒸気の心臓を軍へ渡すな。
――封印から取り出し、《赤》へ届けよ。
――それが、再び戦争を止める唯一の道である。
シアンはグレンダ、そして弟分であるカイと共に、アルディス機工特区地下深くへ向かった。
しかし。
そこで待っていたものは、封印された空の台座。
そして、一通の古びた封筒だった。
差出人。
レオナール・グレイン。
【そなたがこれを読んでいるということは、蒸気の心臓を求めているのだろう】
【だが、残念ながら心臓はここにはない】
【私が隠した】
【もし本当にそれを必要とするのならば、私の友人たちが残した“ピース”を集めよ】
【すべての謎を解き、真なる心臓へ辿り着くのだ】
失われた禁断の発明。
その行方を追うため、シアンたちは新たな旅へ踏み出した。
道中で救った帝国軍元帥の娘。
ルシア・ハートランド。
彼女を仲間に加え、旅をする者は三人から四人へ変わった。
失われた蒸気の心臓。
レオナールが残した謎。
迫り来る帝国軍の影。
そして、交錯するそれぞれの思惑。
彼らが次に向かう場所は――。
北部に広がる、断崖と霧に包まれた渓谷。
ククルカン渓谷。
そこに眠るものは、次なる“ピース”か。
それとも――。
新たな陰謀の始まりか。
禁断の残響が響く中。
新たな物語の幕が、今開かれる。




