9.慌ただしくなる港
「おおっ、やったなシアン!」
蒸留室にリックの大声が響いた。
「この音だ! これが聞きたかったんだよ!」
巨大な蒸留機の内部で、安定した蒸気の流れる音が響いている。
先ほどまで不規則に震えていた機械は、今ではまるで生き返ったように静かな鼓動を刻んでいた。
「どうやら原因はこれ。後付けのバルブですね」
シアンは取り外したバルブをリックに差し出しながら、蒸留機へ視線を向ける。
「粗悪品だったみたいで、圧力調整がうまくいかずに蒸気が漏れてたみたいです」
「なるほどなぁ……」
リックはシアンの手にあるバルブを一瞥してから感心したように頷く。
それから屈んでいた体を伸ばし、シアンの肩を力強く叩いた。
「さすがスチーム・フィールドのエースだ!」
「ちょ、ちょっとやめてくださいよ!」
勢いに押され、シアンは苦笑する。
「俺なんか、ばあちゃんに比べたらまだまだですよ」
「わっはっは! 謙遜なんかするな!」
リックは豪快に笑った。
「お前みたいな腕の奴がそうそういてたまるか。グレンダさんもさぞ鼻が高いだろうよ」
その言葉に、シアンは少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
蒸留室には、出来上がったばかりのジンの香りが漂っている。
熱を帯びた真鍮の管は夕陽を受けて赤く輝き、窓の向こうでは港の水面が黄金色に染まっていた。
時計を見ると針は、すでに午後五時を回っていた。
「……もうこんな時間か」
シアンは小さく呟く。
今朝グレンダから告げられた言葉が頭をよぎった。
――赤が来る日。
シアンは工具を片付けながら、静かに息を吐いた。
「さてと……そろそろ帰らないとな」
「うむ。気をつけて帰るんだぞ!」
リックは笑いながら樽を叩く。
「今夜は久々に上物のジンが飲めるな! となると、流通を止めてた顧客にも急いで連絡せんといかん!」
「ははっ。また忙しくなりそうですね」
工具箱を肩へ掛け、シアンは手を振った。
「それじゃあ失礼します、リックさん」
商館を出ると、港は夕暮れの色に染まっていた。
遠くで汽笛が鳴り、潮の香りに混じって油と鉄の匂いが鼻をくすぐる。
大小様々な蒸気船が並ぶ岸壁。
その中でもひと際異彩を放っているものがあった。
昼間入港した、アークライン帝国の軍艦。
黒鉄の船体は夕陽を跳ね返しながら、港の一角に静かに停泊している。
シアンは歩きながら、ちらりと視線を向けた。
甲板では兵士たちが慌ただしく動き回っている。
ただ、その動きには昼間見た時とは違うものがあった。
規律ではなく、焦り。
何かを探しているようにも見える。
その時だった。
港のざわめきの中に、艦体から港に降り立った兵士の声が混じった。
「……ルシア様が見つからないだと?」
「声を抑えろ」
「しかし、もしあの場所へ向かわれていたら……」
「いや、あの方は何も知らされていないはずだ」
軍服姿の男たちが、周囲を気にしながら小声で言葉を交わしている。
シアンは歩みを止めず、何気なく耳を傾けた。
(ルシア……?)
聞いたことのない名前だった。
ただ、あの様子を見る限り、ただの迷子という雰囲気ではない。
「……やれやれ」
シアンは小さく息を吐いた。
「物騒になってきたな」
その時、聞き覚えのある声が響いた。
「おーい! シアーン!」
振り返ると、リックが大きな身体を揺らしながらこちらへ向かって走ってくる。
「はぁ……はぁ……」
数百メートル。
それだけの距離で、もう息が上がっていた。
「くぅ……こりゃ痩せんといけんな……」
「リックさん!? どうしたんですか!」
「いやなに……」
リックは呼吸を整えながら、袋を差し出した。
「せっかく直してもらったんだ。試しに少しだけ作ってみたやつを持ってってくれ」
中には、小さな瓶が二本入っていた。
「グレンダさんと一緒に飲め。仕事終わりの酒はとびきり美味いぞ」
シアンの表情が明るくなる。
「えっ……いいんですか?」
「ああ」
リックは笑った。
「それと、こっちはカイくんへ」
もう一つ差し出された袋には、色鮮やかな異国の菓子が詰まっていた。
「子供に酒は飲ませられんからな!」
「……ありがとうございます」
シアンは袋を受け取り、深く頭を下げる。
「本当に助かりました」
「おいおい、礼を言うのはこっちの方だ」
笑いかけながらリックは踵を返し、後ろ手を振った。
「また機械が壊れた時は頼むぞ」
そう言って、リックは再び港の人混みへ戻っていった。
シアンも手を振り返す。
その時ふと、人の流れの向こうに妙な姿が見えた。
灰色のローブ、深く被ったフード。
夕暮れの港には似つかわしくない格好だった。
(……なんだ、あれ)
旅人にしては妙に周囲を警戒している。
人混みへ紛れるように歩き、その人物は広場へ続く道へ消えていった。
シアンはしばらく、その背中を見つめる。
胸の奥に、小さな違和感が残った。
ただの気のせい。
そう片付けるには、何かが引っかかる。
グレンダとの約束までは、まだ少し時間がある。
シアンは肩に掛けた工具箱を持ち直した。
「……ちょっとだけ見るか」
夕陽が、オレンジ色の髪を赤く染める。
港を吹き抜ける潮風。
遠くで鳴り響く蒸気船の汽笛。
その音に導かれるように、シアンは灰色の影が消えた方角へ歩き出した。
まるでアルディスという街そのものが、静かに歯車を回し始めたかのように。




