8.トレモン商会と来航した影
時計の針は、もうすぐ正午を指そうとしていた。
港へ降り注ぐ陽光が、停泊する蒸気船の甲板を白く照らしている。
遠くの海面は陽の光を弾いてきらめき、辺りには汽笛の音、金属が擦れ合う音、海鳥たちの鳴き声が入り混じって響いていた。
朝の市場が終わった時間だというのに、アルディスの港はまだ眠る気配を見せない。
貨物船が岸壁へ着くたび、積み荷を運ぶ労働者たちの掛け声が潮風に乗って飛び交う。
魚や肉、香辛料に異国の織物。
世界中から集まった品々が行き交うこの場所は、帝国と周辺諸国を繋ぐ大動脈だった。
その港の一角に、ひと際目立つ二階建ての商館が建っている。
木造ながらも頑丈な造りをしたその建物の前には、青銅の看板が掲げられていた。
〈トレモン商会〉
その下には、ジン・輸出入・配達業務の文字。
ここで作られる〈トレモン・ドライ・ジン〉は、帝国内の酒場なら知らぬ者はいないと言われるほどの名物だった。
そんな商館の階段を、ひとつの影が駆け上がる。
「遅くなりました!」
息を切らしながら扉を開けると、すぐに大きな笑い声が返ってきた。
「おお……! やっと来たか、シアン!」
両手を広げて出迎えたのは、丸みを帯びた体格の男だった。
「待ちくたびれたぞ! わはははは!」
豪快に笑いながら腹を揺らすその男。
リック・トレモン。
商売人らしい鋭い眼差しを持ちながらも、その表情にはどこか憎めない人の良さが滲んでいた。
「今日こそ頼むぞ!」
リックは蒸留室の方を指差す。
「あの蒸留機が直らんことには、ジンが一本も作れやしない!」
「分かってますって。遅れてすんません、リックさん」
シアンは額の汗を拭いながら苦笑し、肩に掛けていた工具箱を下ろした。
「まったく……お前さんがいなきゃ、この商会も干上がっちまうよ」
「そりゃ困りますね」
シアンは笑う。
「俺もここの酒、気に入ってるんで」
軽口を交わしながら、シアンは商館の奥へ向かった。
辿り着いた先は、金属と酒の香りが混ざり合う蒸留室だった。
そこには巨大な蒸留機が鎮座している。
真鍮のパイプが壁や床を這うように伸び、機械の内部ではかすかな蒸気漏れが起きていた。
正常ならば一定の音を刻むはずの機械が、どこか苦しそうに息をしている。
シアンは袖をまくり、工具箱を開いた。
そして左手の指先を軽く鳴らす。
カチリ。
真鍮の指先が外れ、その代わりにスパナ状のアタッチメントが取り付けられる。
カイが特注で作った改良品だ。
「さて……今日も頼むぜ、相棒」
左腕へそう声をかけると、シアンは蒸留機の下へ潜り込んだ。
カン、カン、カン――
真鍮を叩く音が、静かな蒸留室へ響き渡る。
その音は何時間も途切れることなく続いた。
気付けば、四時間が過ぎていた。
最後の圧力バルブを締め直した瞬間、蒸留機の胴体が小さく震えた。
内部を流れる蒸気が、今度こそ正しい音を奏で始める。
「……よし」
シアンは立ち上がり、額の汗と油を手の甲で拭った。
「リックさーん!」
蒸留室の外へ声を飛ばす。
「なんとか息吹き返しましたよ!」
「おお!」
すぐにリックの歓声が返ってくる。
「さすがだ、シアン!」
職人たちも集まり、安堵したような笑顔を浮かべた。
「これで今夜からまた樽を回せるぞ!」
その喜びの声が商館へ広がった。
だが――
次の瞬間。
ドォォン……。
低く重い音が港全体を揺らし、空気が震える。
潮の香りに混じっていた鉄の匂いが、突然強く感じられた。
「……なんだ?」
外のざわめきに、シアンは顔を上げる。
窓際へ駆け寄ったリックに続き、シアンも外へ視線を向けた。
沖合。
そこには、一隻の巨大な黒鉄の軍艦があった。
ゆっくりと、まるで海そのものを押し分けるように、港へ近づいてくる。
艦尾では、アークライン帝国の紋章、双翼の歯車旗が風を受けて翻っていた。
艦体の側面には無数の砲門、甲板には整然と並ぶ兵士たち。
その姿は、ただの寄港ではないことを物語っていた。
「ありゃあ……アークラインの……軍艦か?」
誰かの呟きが、波音に消える。
港にいた漁師も、商人も、労働者も。
誰もが手を止め、その巨大な影を不安な顔でじっと見つめていた。
「まさか……」
リックの声が震える。
「本当に……戦を始める気なのか?」
最近、バルナス共和国との国境が騒がしい。
そんな噂は、この港にも届いていた。
だが。
軍艦がこの街まで姿を現すなど、誰も想像していなかった。
やがて艦は港へ入り、兵士たちが次々と降り立つ。
規律正しく並ぶ軍靴の音が響くたび、港の空気は少しずつ冷えていった。
シアンは蒸気を吐き出す軍艦を見つめながら、ゆっくりと左の義手を握り締める。
グレンダの顔が脳裏をよぎった。
そして、店を出る前に告げられた言葉。
『今夜は、“赤”が来る日だよ』
シアンは目を細める。
「……嫌な風が吹き始めたな」
潮風に揺れる髪を押さえながら、静かに呟く。
「赤が来る日に軍まで……何かあるってことか?」
その声は、港を吹き抜ける風の中へ消えていった。
黒鉄の艦体から吐き出される蒸気だけが、港のざわめきの中で低く響いていた。




