7.蒸気医と金の髪の看護婦
シアンが案内されたのは、広場の片隅にひっそりと建つ小さな診療所だった。
露店と露店の間へ肩を寄せ合うように建つ赤煉瓦の建物。その壁に取り付けられた排気口からは、細い白煙が静かに立ち昇っている。
入口に掛けられた古びた看板には、こう刻まれていた。
〈アルディス機工特区・ノートン診療所〉
診療所というより、小さな工房のような佇まいだった。
シアンは懐かしそうに看板を見上げると、木製の扉を軽く二度叩いた。
「よう、先生。いるかい?」
診療所の奥から、何か工具でも落としたような音が響く。
続いて慌ただしい足音。
「おお、今開けるよ!」
威勢のいい声とともに扉が開いた診療所から姿を現したのは、白衣をまとった大柄な男だった。
短く刈り込まれた髪に、丁寧に整えられた口ひげ。
白衣の袖から伸びる腕は太く逞しく、医者というより長年機械を扱ってきた整備士のような風格がある。
ドクター・ノートン。
十一年前、シアンへ初めて義手を与えた蒸気医だった。
「おお、シアン! 久しぶりじゃないか!」
豪快な笑みを浮かべながら肩を叩く。
「どうした? 義手のメンテナンスでも来たのか?」
「いや、広場でルナさんに捕まっちゃってさ」
シアンは苦笑しながら肩をすくめた。
「せっかくだし、顔だけでも出そうかなって」
そう言って袖を捲ると、真鍮のフレームに蒸気管が幾重にも巡る左腕が朝日を受けて鈍く輝いた。
手首の小さなピストンが小さく蒸気を吐き、五本の指が生き物のように滑らかに動く。
ノートンの目が少年のように輝いた。
「おお……これはまた、随分と面白いもんを付けてるじゃねえか」
顔をぐっと近づけ、興味津々に眺め回す。
シアンもどこか誇らしげに腕を差し出した。
ノートンの視線は指先から手首、前腕へと移り、最後に肩口の接合部で止まる。
その瞬間、小さく息を吐いた。
「……もう十一年になるのか」
顎ひげを撫でながら、しみじみと呟く。
「どうだ。調子は?」
「絶好調ッス」
シアンは拳を軽く握って見せた。
「腕があった頃より便利なくらいですよ」
「おいおい。それじゃ無くなった腕が泣くぞ」
二人が笑い合った、その時だった。
「もう、先生ったら」
診療室の奥から柔らかな声が響く。
「一応シアンくんでもお客様なんだから、お茶くらい出したらどう?」
カーテンをそっとくぐり抜け、一人の女性が姿を現した。
肩で揃えた金色の髪が柔らかく揺れ、丸眼鏡の奥では優しい瞳が微笑んでいる。
ふんわりとした服越しにも分かるほど大きく膨らんだお腹へ、シアンの視線が自然と向いた。
「ルナさん、さっきはどうも!」
思わず笑みがこぼれるが、すぐにシアンは駆け寄ってみせる。
「妊婦さんにお茶出させる訳にはいかないですよ。俺がやるんで座っててください」
ルナは愛おしそうにお腹へ手を添えた。
「ありがとう、シアンくん」
その手のひらの下で、小さな命が動いたのだろう。
「本当はね、元気が良すぎて……すごーく大変なの」
「へぇ……」
シアンは目を細める。
「でも、楽しみですね」
そのまま隣に立つノートンへ視線を向ける。
「先生も、ついに父親かぁ」
少し照れくさそうに笑った。
「先生なら、きっといいお父さんになりますよ」
ルナは頬を染め、ノートンは照れ隠しのように咳払いをした。
「ハッ、俺が父親か」
腕を組みながら照れ笑いを浮かべる。
「まだ実感なんてさっぱり無いが……まあなんだ。元気に産まれてきてくれりゃ、それで十分だ」
その言葉を聞きながら、シアンは静かに自分の左腕へ目を落とし、指をゆっくり握る。
十一年前。
この腕が初めて自分の身体へ繋がった日のことは、今でも忘れない。
親に捨てられ、親戚をたらい回しにされ、最後には左腕まで失った。
居場所はどこにもなかった。
生きる理由も見つからず、ただ死に場所だけを探していたあの頃。
そんな自分に、最初に手を差し伸べたのがグレンダ。
そして失った左腕の代わりを与えてくれたのが、目の前にいるドクター・ノートンだった。
シアンは小さく笑う。
「先生たちや、ばあちゃんのおかげですよ」
左腕を軽く持ち上げる。
「今じゃ生の腕があった頃より、不自由してません。本当に感謝してます」
ノートンは照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「まったく……相変わらず軽口だけは一人前だ」
その口元は、どこか嬉しそうだった。
ルナが義手を覗き込み、感心したように目を丸くする。
「そういえば、その義手」
指先をじっと見つめる。
「前より動きがずっと自然になってるわね」
シアンは得意げに笑った。
「カイが改良したんスよ」
真鍮の指を器用に動かして見せる。
「あいつ、本当に天才なんです」
「なるほどね」
ノートンは感心したように頷く。
「それでも無理だけはするなよ」
「もちろん」
シアンは笑顔で親指を立てた。
「困った時は真っ先に先生のところへ来ます」
そう言って懐中時計を開いた瞬間だった。
「あっ……!」
顔色がみるみる変わる。
「やっべぇ!」
慌てて工具箱を背負い直す。
「もうこんな時間じゃねぇか! トレモン商会のオヤジにドヤされる!」
勢いよく扉へ向かう背中へ、ノートンが笑いながら声を飛ばした。
「おい! 走り過ぎるとまた義手の調整が狂うぞ!」
シアンは振り返りもせず片手を振る。
「そん時はまた直してください!」
次の瞬間には扉が開き、オレンジ色の髪が街へ飛び出していった。
その姿を見送りながら、ルナが小さく笑う。
「元気ねぇ」
窓の向こうでは、人混みを縫うようにシアンが駆けていく。
「あの子がこの街へ来てくれて、本当に良かった」
「……ああ」
ノートンも静かに頷いた。
「風みたいな奴だからな。じっとしてたら逆に心配さ」
二人はしばらく、その背中を眺めていた。
やがてルナの笑顔が少しだけ曇る。
「シアンくんは、あれだけ元気なら安心だけど……」
視線が机の上へ落ちた。
そこには、一冊のカルテが置かれている。
「グレンダさんは……」
部屋の空気が静かに止まる。
ノートンもカルテへ目を向け、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
低く呟く。
「だが、グレンダさんがまだ話すなと言ってる以上、俺たちから伝えるわけにはいかん」
窓の外では、いつもと変わらないアルディスの朝が流れていた。
その賑わいとは裏腹に、診療所の中だけが静かな沈黙に包まれていた。




