88.蒸気兵装の囁き
アルディス市街地から少し離れた、住宅が密集する路地裏の一角。
そこにある古びた家が、シアンの帰る場所だった。
スチーム・フィールドから戻ったシアンは、重たい身体を引きずるようにして薄暗い部屋へと入った。
わずかなランプの明かりが揺れ、疲れ切った影が壁に落ちる。
靴すら脱がずに、シアンはベッドへ倒れこむように横になった。
「……なーんで嘘ついちまったかな……」
乾いた声がこぼれる。
グレンダの容態。
本当は、カイやルシアには一番に伝えるべきだった。
しかし、伝えればきっとカイは動揺し、ルシアはここに残ると主張するだろう。
自分が伝えてしまったせいで彼らの行動が縛られてしまう。
その未来が容易に想像できてしまった。
「……はぁ。ばあちゃんの存在って、でけぇなぁ……」
そう呟きながら体を起こし、シアンは壁にかけてある古びた義手へと視線を向けた。
初めてアルディスの街に流れ着いた日。
ボロボロの少年だった自分をグレンダが拾い上げ、真っ先に自分へ渡してくれたのがこの蒸気義手だった。
「拾われてもうすぐ十二年か……そりゃあ、ばあちゃんも歳をとるよな」
義手は鈍い鉄色を帯び、長い年月を感じさせる傷が刻まれている。
ふと胸の奥が締めつけられ、言葉が喉にひっかかった。
「……ばあちゃんが死んじまったら……どうしよう……」
その一言を境に、心の堤防が崩れた。
張りつめていた緊張がほどけ、ぽたぽたと涙が頬を流れ落ちる。
「まだ……まだ何も恩返しできてねぇんだよ……頼むよ神様……ばあちゃんを……まだ連れていかないでくれよ……」
手で顔を覆う。
部屋の空気は静まり返り、時間だけがじりじりと過ぎていった。
そんな時だった——。
【まったく……情けない……】
誰かの声が、シアンに語りかけた。
「だ、誰だっ!!」
シアンは驚き、部屋の中を見回す。
しかし誰の姿もない。
【彼女がああ言ったんだ。必ず良くなる、そう願うのが彼女のためになるとは思わないのか?】
謎の声は、絶え間なく言葉を続ける。
【それとも何か? お前にとって彼女への信頼はその程度なのか】
「どこだ! どこから話してる!」
部屋の中を視線を動かしくまなくさがすが、人影はない。
【全く……どこを探している……。私は、お前の左手だ】
「……は? 左手?」
反射的に左腕を見る。
暗闇の中、リベラルナックルが窓から差す淡い光に照らされ、鈍い灰色に光っていた。
シアンはまさかと息を飲む。
【ようやく気付いたか。どうやらお前の精神が不安定な時に私の声が聞こえるようだな】
シアンの目が大きく見開かれる。
「はああ!? リベラルナックルが喋ってる!? 待てよ、スピーカーなんか付いてなかったぞ!」
左手の蒸気兵装、リベラルナックルをくまなく見るが、音が出るような仕掛けはどこにもなかった。
【音声じゃない。端的に言えばお前の神経に直接語りかけていると言ったところだ】
呆れたような声。
それが、明確に“意志”を持っていた。
「そんな技術聞いたことねぇよ……でも……ロストテクノロジー……?」
シアンは義肢屋でリオンとファントムから聞いた言葉を思い出す。
『──当時の技師が残したロストテクノロジーが内部に組み込まれてるんだよね──』
【ロストテクノロジー、か。そんな大層なもんじゃないんだがな】
わずかに笑いを含んだ声がシアンの中に響き渡る。
【簡潔に言うと、私は元々“人間”だ】
「待て待て待て! どこからどう見てもただの蒸気兵装だろ! 生身の人間だったわけ──」
【“だった”と言っただろう。人間だった頃の意識を、この義手へと貼り付けた。それだけだ】
その言葉で、シアンの脳裏に電撃のようにひらめく。
「……それって、“意志の鋲”の技術じゃ……!」
【ほう、知っていたか。それなら話は早い】
【大戦の頃、私はこの義手に“自分”を残した。だが接続する相手がいなければ目覚めない。だから私は長い年月をただ眠り続けていた】
淡々とリベラルナックルは言葉を続けた。
【先日のルーグレムとの戦いで、何かがきっかけで私は目覚めた。完全ではないがな】
シアンはハッとする。
「ディルモットとの戦いの時の……あの声、もしかして……」
【ああ。あの時のお前は、今と同じく精神が極限だった。だから私の声が届いた】
「嘘だろ……禁断の技術が、俺の左手に……?」
【禁断かどうかはさておき……シアン。私はしばらく眠っていたせいで、エルディア大戦の結末も今のアークライン帝国がどうなっているのかも知らない。もしよければ……話してくれないか】
静かな声。
それは人間がもつ、確かな温度と知性。
シアンは左手の義手を見つめた。
鉄の外装に、今は確かに“意志”が宿っている。
この夜、自分だけが知る秘密が、またひとつ増えた。




