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蒸気の心臓─機工幻想譚─  作者: らふぃお
第2章、夢と決意を乗せて
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86. 蒸気の魔女の夜

夜のノートン診療所には、昼とはまるで違う静けさが満ちていた。

外の街灯が揺らす琥珀色の光が窓の硝子を震わせているだけ。

 

緊張がほどけ切らない空気の中、シアンはグレンダを背負って駆け込んでからしばらく廊下の壁にもたれかかったまま、拳を固く握り続けていた。


やがて診察室の扉が開き、ノートンが白衣の袖をまくりながら姿を見せる。


「ふう……薬も飲めたようだし、なんとか大丈夫だ。全く、グレンダさんに無茶させたのか?」


「えっ? ノートン先生、ばあちゃんの具合……知ってたんですか?」


シアンの声は驚きよりも責めるような響きを帯びていた。

ノートンは深い皺を寄せてため息をつく。


「……やっぱり言ってなかったか。あの人らしいよ。きっとお前やカイには心配させたくなかったんだろうな」


シアンの胸が強くざわつく。


「シアン。グレンダさんはな、去年あたりから心臓に痛みが出てるんだ。無理させると今日みたいになる。だから、あまり働かせないようにしてくれ」


ノートンはシアンの肩に手を置き、柔らかく、しかし重みのある声で言葉を続ける。


「俺が言っても聞かないだろう。……頼む。人は気持ちが全部強さに見える時ほど、本当は一番弱っているもんだ。」


そう伝えシアンの背中を優しく叩くと。ノートンは隣室へ消えた。


静かな廊下。

その息が詰まるほどの静けさの中で、シアンは拳を握ったまま動けずにいた。


(そんな状態なのに、何も言わなかったのかよ。こんなになるまで)


胸の奥に渦巻く重さを噛み締めて立ち尽くしていると、不意に診察室の扉の向こうから声がする。


「……シアン、そこにいるのかい? いるなら入っておいで」


弱い声だった。

聞き慣れたはずの声が、こんなに頼りなく響いたのは初めてだった。


シアンはゆっくり扉を開いた。


ベッドの上。

そこには薄い毛布にくるまれ、胸に手を当てながら横たわるグレンダがいた。


その顔は少し青ざめているが、それでも彼女は笑っていた。


「……なんて顔してるんだい、まるで世界の終わりみたいだね」


「ノートン先生から聞いたよ……ずっと無理してたんだろ」


シアンの声は震えていた。

義手の拳も震えるほど握りしめられている。


そんな様子を見てもなお、グレンダは笑顔のままだった。


「バレちまったねぇ……普段はどうってことないんだよ。だけど無理すると、時々こうなっちまうのさ。」


「なんで言ってくれなかったんだよ……言ってくれれば、俺……!」


シアンが声を上げると、グレンダは首を振り静かに目を細める。


「無理をしてたつもりはないんだよ。お前さんやカイと仕事するのは楽しいからね。それに、裏の仕事はまだアタシが居なきゃ回らないだろう」


ふっと、小さく息を吐いてグレンダは白い天井を見つめた。


「それにね……最近はルシアが来てくれた。あの子が来てから、スチーム・フィールドがまた少し明るくなった。あの雰囲気にね……アタシもつい、調子に乗っちまったんだ。」


冗談めかした声に、シアンはもう泣き出しそうな顔を隠せなかった。


「死ぬわけじゃない。泣くんじゃないよ」


グレンダは続ける。


「だけどね、この体じゃあククルカンには行けない。行っても足を引っ張るだけだ……。だから、任せるよ」


シアンは唇を噛んだ。


「こんな状態のばあちゃん置いてククルカンに行けるわけ──」


「シアン」


優しく名前を呼んでシアンの言葉を遮った。

 

「アタシがお前を拾ってからもうすぐ十二年……よく育ったよ。優しくて、強くて、ちょっと間抜けでね」


「間抜けは余計だろ……」


そう返すシアンの声はかすれていた。


「蒸気の心臓がもし軍が手に入れちまったら、アタシたちだけじゃない。この国みんなが戦争に脅かされる」


「だけど、俺は——」


「泣き言は聞かないよ。それとだ、ククルカンにはルシアも連れて行きな」


シアンは顔を上げた。


「ルシアも……?」


「この状態のアタシのもとにあの子を残してみな。もし帝国軍があの子の居場所を嗅ぎつけたらひとたまりもない。守れるのは……お前しかいないんだよ、シアン」


グレンダは、じっと見つめて言葉を続ける。


「シアン、もう一度言うよ。お前には大きな優しさもある。そして誰かを守るための力もある……」


軽やかに笑いながらも、その目は真剣だった。


「この国も、カイも、あの子もお前なら守れるだろう。ねぇ、“スモーク・ウォーカー”」


その名を呼ばれた瞬間、シアンの心の迷いは消えた。


しばらくお互いに見つめ合ってから、シアンは深く息を吸い、そして笑った。


「ばあちゃん、必ず戻る。だから帰った時に死んでたなんてのは無しだからな」


「アタシを誰だと思ってるんだい? 蒸気の魔女、グレンダ・フィールドさ。簡単にくたばるようなタマかい」


シアンは背を向け、振り返らずに言った。


「行ってくる」


扉が静かに閉まる。

残されたグレンダは、薄く笑った。


「頼んだよ……シアン・クロウ=フィールド。……アタシの後継者」

 

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