85. 静かな夜の兆し、不安の足音
アルディスの飛行場からスチーム・フィールドへ戻ったシアンたちは、それぞれの疲れを抱えながらも翌日の旅立ちに向け準備を進めていた。
とはいえ、ルーグレムの騒動や飛行船の修理を乗り越えたばかりの身体は正直だった。
しかし、グレンダとシアンはそれでも明日の朝ククルカンへ旅立つために手は止めない。
その一方で、工房に戻った瞬間カイは思わず工房の椅子にへたり込んだ。
「うへぇ……グレンダさんも兄貴もすごいね……僕もうヘトヘト……」
椅子の背にもたれ魂が抜けたような声でカイが言うなか、荷物を運びながらシアンが笑う。
「今まで何回もこんな修羅場はあったからな。慣れっこだよ。お前も首を突っ込んだんだ、これからは覚悟しときな」
「そうだよカイ」
グレンダが横目でシアンを指さす。
「でもまあ、コイツも最初の頃はお前と同じこと言ってたけどね。泣きべそかいて『もう無理だ!』って何回叫んだか」
「おいばあちゃん!それ蒸し返すなよ!」
そんな和やかな空気の中――。
「……あ、あの。シャワー終わりました……」
控えめな声とともにルシアが姿を現した。
蒸気の白さが残る室内光の中、濡れた金髪がきらりと光り、火照った頬が蒸気の色に染まっている。
「ほお……これはなかなか……」
シアンの顔が本能的ににやける。
ゴツンッ!
グレンダのゲンコツがシアンの頭に落ちる。
「なに見てんだいこのスケベ!!」
「いってぇな! 頭割れんだろ!」
「はあ……タカカゲさんの前でビシッと決めてた兄貴はかっこよかったのに。あの兄貴はどこ行ったのさ」
カイの呆れた声に、ルシアは恥ずかしそうに笑った。
「さ、アタシとこのスケベはククルカンへ向かう準備をする。カイとルシア、お前たちはは買い出しだ。このスケベとルシアを一緒には行かせらんないからね」
そう言ってグレンダはルシアへ小さなメモと財布を渡す。
「くっ……見とれちまったせいでルシアとの大事なイベントが……」
シアンは膝から崩れ落ちる。
「ははは! 残念だったね兄貴。買い出しは僕たちの仕事だよ。お姉ちゃん、行こう!」
カイがルシアの手を引いて軽やかに外へ出ていく。
「さーて!準備は兄貴とグレンダさんに任せて……それにしてもお金がこんなに……おやつ買っちゃえば……」
「あ、あのダメですカイくん! それは買い出しの物を買うためのお金ですよ! そんなことしたらシアンさんに怒られちゃいます!」
二人の賑やかな声が遠ざかり、店内にはシアンとグレンダだけが残った。
しばらくして、工房に再び静けさが戻る。
シアンは荷造りをしながら、ふと振り返らずに言った。
「……で、どうしたんだよばあちゃん?」
「何がだい…」
「このタイミングで二人を買い出しに行かせて、俺だけ残すなんてさ。余程聞かれたくない話があるんだろ?」
少しの沈黙。
工具の金属音が、妙に大きく響く。
「……ふっ。お前さんの勘の鋭さには……いつも驚かされるよ……」
グレンダの声はかすかに震えていた。
シアンは眉をひそめる。
「ばあちゃん?」
道具を片付けながら振り返ったその時――。
グレンダの肩が小刻みに揺れていた。
胸を押さえ、呼吸が乱れ、膝が折れかけている。
「ばあちゃん!」
駆け寄る間もなく、グレンダの体が前のめりに傾いた。
「う、ぐ……っ」
「ばあちゃん! おい、どうしたんだよッ!」
シアンはすぐに抱きとめ、床に倒れるのを防ぐ。しかしその手に、グレンダの体重がぐったりとのしかかる。
意識が――ない。
「ばあちゃん!!聞こえるか!? おい!!」
返事はない。
シアンの心臓は爆音のように鳴り響き、額から汗が流れる。
「ッ……くそ!!」
グレンダを背負い、シアンは工房を飛び出し夜の街を全力で駆け抜けた。
向かう先は、ノートン診療所。
「先生!!ばあちゃんが大変なんだ!!」
シアンは診療所の扉を乱暴に開く。
「……っ!! グレンダさん!!」
ドクター・ノートンが驚きながらもシアンの背中でぐったりとしたグレンダの姿を見て椅子から跳ねるようにたちあがった。
彼はすぐにグレンダをベッドへ運び、器具を取り出した。
「シアン、下がってろ! すぐに診る!!」
シアンは拳を握りしめることしかできない。
ようやくククルカンへ旅立てる――。
仲間が揃い、船も修理され、明日こそは飛び立つはずだった。
だがその直前で、スチーム・フィールドの支柱とも言えるグレンダが倒れてしまった。
工房の片隅に残る、作りかけの荷物。
そこには、まだ旅立ちの意思が残されている。
しかし――もう、何も手につかない。
診療所のランプがわずかに揺れるたび、シアンの不安は膨らんでいった。




