83. 錆翼、渓谷に降り立つ
ククルカン渓谷の飛行場より少し離れたとある場所――切り立つ赤岩の壁が幾層にも連なり、その奥底では絶えず砂塵が舞い上がる。
風が吹くたび、岩壁に残る過去の掘削の跡が遠い昔の呼吸を思わせる。
その静かな土地に、一筋の影が滑り込むように降り立った。
小型飛行機の車輪が砂利を巻き上げ、機体が短く揺れて停止する。
ハッチが開き、黒い服を風にはためかせながら一人の兵士が地上へ降り立つ。
蒸気エンジンの冷却音が微かに鳴る中、男は険しい渓谷を見渡し、低く呟いた。
「……ここがククルカン渓谷か」
アークライン帝国軍・錆翼の隊長、ラルゴ・ドレイク。
帝国軍でも屈指の武力を持ちながら、己の正義を曲げぬことで知られる男。
彼のその瞳には強い決意の色が宿っていた。
しかし、彼の胸には重くのしかかるものがある。
ここに来るまでの経緯――それを思い返しながら、ラルゴはゆっくりと息を吐いた。
遡ること、数日前。
ハーランとマルティナが言葉を交わしたあの日の翌日のこと。
薄暗い軍艦グラナードの司令室。
地図が貼り付けられた壁面の前で、彼の上司にあたるハーラン大佐が眉間に深い皺を寄せていた。
「なんとしてでもマルティナの、奴の野望を止めんといかん」
義眼となった片目をギラリと光らせながら、司令室の椅子に座り腕を組んだ。
「だが……このままでは、確実に我々やその他の捜索隊が心臓を見つけるよりも先に、奴は開発に漕ぎ着けるだろうな」
その重い声に、スピアーが肩を竦めながらため息をつく。
「このままじゃあ、まずいわね。あの女、本気で何万人でも犠牲にしそうだもの」
沈黙が落ちたその時、ラルゴが口を開いた。
「……ならば、俺達が秘密裏に奴らの作戦を妨害するのはどうだ?」
即座に、ハーランが顔を上げる。
「そうしたいが……だがしかし、マルティナの行動はキース大将が容認している。下手すれば、我々は反逆者として処罰されるかもしれん」
その言葉にスピアーは険しい顔になる。
だが、ラルゴは一歩前へ進んだ。
「……それなら、俺が単独で奴らの妨害をする。それならハーラン、それにスピアーを含めた俺の錆翼のメンバーに処罰が下ることはないだろう。俺が身勝手に動いたということにすれば」
「はぁ!? バカねあんた!」
スピアーが叫ぶ。
「そんなことしてバレたら、あんたが処刑されるかもしれないのよ!」
「構わん」
ラルゴは静かに、しかし誰よりも強く言った。
「奴らを止めなければ、本来俺たちが守るべき存在の多くの民の命が“蒸気の心臓”を作り出すために奪われるんだ」
両腕の黒い蒸気兵装から僅かに蒸気が吹き出す。
「たしかに俺はバルナス共和国と戦いたい……。それが多くの民を危険に晒すことも承知だ」
ハーランとスピアーが喉を鳴らす中、ラルゴは続ける。
「だがな、民の命を“利用して作る”兵器に力を貸すつもりはない」
その言葉に、部屋の空気が震えた。
ラルゴは、ゆっくりとハーランに向き直る。
「……かなり危険な任務だぞ?」
その瞬間、スピアーの目が見開かれる。
「ハーランちゃん! ラルゴを止めないの!?」
スピアーが焦れた声で言うが、ハーランは答えない。
ただラルゴその鋭い瞳をじっと見据えてた。
ラルゴはニヤリと笑った。
「任せろ。あの女の野望なんぞ必ず打ち砕いてみせる」
そして、現在に至る。
「……とは言ったものの、俺がここに居ることがバレれば、やはりハーランやスピアーたちも罰を受けるだろうな」
ラルゴは呟き、飛行機の操縦席側面に掛けてあった黒いマントを羽織った。
それは彼の両腕の蒸気兵装を隠すための厚手の布。
さらに、懐から鈍い光を放つ鉄製の仮面を取り出し、顔に装着する。
蒸気の吐息が鼻腔で反響し、鉄仮面は彼の呼吸に合わせて微かに鳴った。
「俺の存在を奴らにバレずに、あの女の計画を阻止しなければな……」
風にマントが翻る。
その姿は、帝国軍人というより“影”であった。
「さて……少将マルティナ・グレーヴ。貴様の狂気じみた計画、錆翼の“機械竜”ラルゴ・ドレイクが必ず貴様ごとぶち壊してやろう」
鉄仮面の下で、ラルゴは不敵に笑った。
まだ誰も知らない——。
このククルカンの地で、シアンたち、マルティナとその直属部隊・野薔薇。
そしてラルゴが蒸気の心臓を巡り巻き起こす騒動が、これから幕を上げようとしていることを。




