82.白電の谷に現る鮮血の将
アークライン帝国北方、強風が渓谷を吹き抜ける“ククルカン渓谷”。
その奥深く、白電鉱石の採掘場に併設されたエーテル研究施設では、夜と昼の境が曖昧になるほど照明が明滅し、蒸気と光粒子が混じった空気が絶えず室内を満たしていた。
「うーむ、また安定化がせんな。もうあと一歩のところなのだがなあ……」
白く短い髭を揺らしながら、蒸気の唸りと白い輝きが舞う実験装置を覗き込む老人。
彼こそがエーテル研究の生みの親であり、アルディス図書館の管理人、パールの父親のシンジュ博士である。
「博士、九割は安定しているので、もうほぼ成功なのでは……」
若い研究員が希望を込めて言うが、シンジュ博士はすぐさま手を振り払う。
「バカを言うな。ゆくゆくはアークライン全土に供給させるエネルギーなのだ。完全無欠のものにせねばいけんよ」
その声音には叱責を超え、未来を背負う者の重圧が滲んでいた。
博士は装置の光を見つめながら、胸の内で小さくつぶやく。
(レオナール……君ならどうする。君が生み出した“蒸気の心臓”の技術応用で作り上げたこのエーテル……この不安定さを取り除くには、あと何が足りない……)
彼の脳裏に、若かりし頃に議論を重ねた友の姿がよぎる。
蒸気、そして人の未来を信じた男、レオナール・グレイン。
その天才に追いつけず、追い続ける宿命。
「成功しているのは、先日完全に仕上がった蒸気兵装コアに用いるカートリッジ……。そして“アラクネ”だけ、か」
シンジュ博士の視線の先、白光を纏うように存在する巨大な機械。
白を基調とし、細い脚を幾本も持つ蜘蛛型の搭乗兵器。
アラクネ——。
その外装は宝石のように滑らかで、内部に宿すエーテル光が脈動する度、蜘蛛脚の影が研究室を不気味に伸び縮みさせた。
「……まったく。人を救うために研究しているというのに……成功するのは、人を殺すためのものばかりとは……」
博士は静かに、しかし深く悲しむように呟いた。
その背中を見て、研究員のひとりが拳を握りしめる。
「……博士。必ず! 必ず完全な安定化を成功させましょう!」
「……ああ。ありがとう。必ず完成させよう。そして一日でも早く……アークライン全土に“幸せの光”を届けるのだ」
久しぶりに柔らかく笑った博士の表情に、研究員たちは希望を見た。
その時だった。
「博士ーっ! 大変です!!」
研究所の扉が勢いよく開き、ひとりの研究員が血相を変えて飛び込んできた。
「街の飛行場に……帝国軍の飛空艇が!!」
施設の空気が、一瞬で凍りつく。
「なんだと……? こんな辺境に軍が来るとは……、目的は……ここしかないだろうな」
博士の表情は硬くなり、胸の内で嫌な予感が膨らむ。
その軍が到着した、ククルカン渓谷の飛行場。
冷えた空気を裂くように、黒鋼の飛空艇がゆっくりと着陸する。
タラップが降り、帝国軍の精鋭たちが規律正しく整列した。
「マルティナ様、無事ククルカンへ着陸いたしました!」
兵が敬礼すると、女性将校がゆっくりと帽子を外す。
漆黒の軍服に映える赤い唇。
鋭い眼差しに、部下たちは自然と背筋を伸ばした。
アークライン帝国軍少将──マルティナ・グレーヴ。
「ふん……。ようやく着いたか……」
風を受け赤髪が揺れ、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
「さぁて……“蒸気の心臓”を必死に探しているバカどもより先に……我々は“心臓を作り出す”ぞ」
歓喜にも似た邪悪な笑み。
その目に宿るのは、破壊的な野心。
「シンジュ博士……あなたが隠し持つエーテル生成技術。蒸気の心臓の生成法を応用しているのは分かっているぞ……」
マルティナは唇で艶やかに笑む。
「必ずその技術、吐いてもらうさ」
そして背後へと声をかける。
「ダイアナ、ゾーイ、セレニティ。お前たちも、頼むぞ」
三人の影が同時に立ち上がる。
「は〜いッ! マルティナ様が私たち“野薔薇”を連れてきたってことは〜……もう“そういう任務”があるってことだよね♪」
小柄で、明るく跳ねる声の女性軍人のダイアナが、片目をウィンクしながら腰の鞭を弾く。
「吐かなければ……痛めつけるだけだ」
褐色の肌に、深くフードを被ったもう一人の女性軍人ゾーイが短く冷酷に告げる。
手には鋭利な処刑具じみた不気味な刃を煌めかせている。
「それが、私たち“野薔薇”の使命ですわ」
静かに美しく締める、三人の中でも圧倒的な美しさを持つシスターベールを被った女性軍人のセレニティ。
長い銀髪を揺らし、淡い笑みで仄暗い気配を漂わせる。
少将マルティナ直属の精鋭女性部隊、ワイルドローズ——通称、野薔薇。
「ふふふ……頼むぞ。すべてはキース様の未来のため……」
マルティナの笑みが、氷より冷たく深い影を落とした。
ククルカン渓谷の空が、重い雲に覆われ始める。




