79.夜明けの帰還
夜が明け始め、飛行場の空気は冷えた鉄と油の匂いを含んで震えていた。
薄い朝霧の向こうから差し込む光が、格納庫の中で修理中の飛行船メンデルスゾーンの外板に反射し、淡く白い輝きを跳ね返す。
グレンダ、カイ、ルシアの三人は、睡魔を振り払うように休みなく作業を続けていた。
「ふぅ……よくやったねあんたたち。日も出てきたし、そろそろ休憩しよう。この勢いならシアンのやつも戻ってきて、四人で取り掛かれば……あと二日もあれば直し終われるだろうね」
グレンダは腰に手を当ててそう言い、息をついた。
カイは工具を放り、船体からタラップを降りながら大きく伸びをする。
「ふぅ、だいぶ直ってきたね。兄貴早く戻ってこないかなあ。飛行船なんて滅多に触れないんだ、兄貴も絶対喜ぶのに!」
その言葉がルシアの胸に静かに沈み込む。
慣れない作業に意識を持っていかれていたが、カイやグレンダの言葉に、いっきに彼女の心が現実へ引き戻された。
(シアンさん……。本当に……)
胸の奥がざわつく。彼は本当に大丈夫なのだろうかと。
その時、ガラガラと低く重い音が格納庫に響いた。
巨大な格納扉が、ゆっくりとわずかに開いたのだ。
朝日が差し込み、格納庫内に長い影が伸びた。
逆光に溶けるようにして、ひとりの人影がゆっくりと姿を現す。
「悪い悪い、遅くなったな!」
その声が響いた一瞬——
ルシアの胸の奥で、何かが弾けた。
耳が熱くなり、視界の端がじんと滲んだ。
さっきまで感じていた油の匂いも、工具の音も、全部が遠ざかっていく。
シアンの声とその姿だけが夜明けの光に包まれて鮮明だった。
「シ、シアンさん……!」
気付いた時には、身体が勝手に飛び出していた。
足が震えていた。息も上手く吸えない。
でもとにかく近づきたくて、触れたくて、無事を確かめたくて――
船体から飛び降りる瞬間、頭の中では何度も警鐘が鳴ったのに、もう止まらなかった。
夜通しの戦いをくぐり抜けたはずなのに、いつものように、あの安心する笑みを浮かべて。
「ルシア、あんな高いところから飛び降りるなんて危ないじゃないか」
優しい声。
その何でもない言葉が、胸に深く突き刺さる。
(ああ……生きて……戻ってきてくれた……)
込み上げる熱が眼の奥で膨らんでいく。
それが涙だと気付いた瞬間、ルシアは慌ててうつむき、両手を胸の前で握り締めた。
抱きつきたい。泣きたい。
でもそれをしたら——。
夜の不安が、一気に溢れ出してしまいそうで——。
「良かったです……シアンさん……ほんとうに、良かった……」
震える声が、自分でも驚くほど弱々しい。
シアンは少し目を丸くし、それから静かに微笑んだ。
「心配かけたな、ルシア」
その一言で、また涙腺が揺れた。
だがルシアは必死に堪え、まぶたを強く閉じる。
頬は赤く、呼吸は浅く、胸は苦しいほど熱い。
きっと今の自分の表情はひどいに違いない。
でも――それでもいい。
無事でいてくれた。それだけで、この朝は世界で一番美しいと思えた。
そんな彼女の内心を知らないまま、アマテラスがシアンの後ろから現れ、茶化し混じりに近づいてくる。
「いやはや……てっきりルシアちゃんが、シアンくんに飛びつくのかと思いましたよ」
「ア、アマテラスさん……! その……!」
恥ずかしさと安堵が混ざり、ルシアは顔をさらに真っ赤にして俯く。
心臓はまだ早鐘を打ち続けていた。
それでも——、その鼓動は喜びの音だった。
「おかえり。それで……どうなったんだい? 鍵の方は?」
船体からシアンを見つめるグレンダが腕を組みながら問いかける。
「ああ! 鍵はきっちり取り返してきた!」
シアンはニッと笑い、白い歯を見せた。
その表情に、グレンダも満足げに頷く。
「よかったあ! 兄貴はやっぱり最強だ!」
カイは嬉しそうにシアンのその答えに喜んだ。
「待たせて悪かったな。さて、俺も修理に参加するよ!」
シアンは袖をまくりながら言い放つ。
「えっ? でも……シアンさん、疲れているんじゃ……」
ルシアの視線が、彼の全身についた擦り傷と煤汚れを捉える。
昨夜の余韻が、そこには確かに刻まれていた。
「飛行船の修理なんて滅多に出来ないだろ? 休んでなんていられねえよ」
その目は戦いの時の鋭い目ではなく、純粋に“ものづくりが好きでたまらない職人”の目だった。
グレンダは大きく手を叩き、にやりと笑う。
「さあ! さっさとアンタも修理に取り掛かりな! ……皆で直すよ。タカカゲの夢をね」
その言葉に、シアンもルシアもカイも胸を張る。
三人の顔には疲れが残っていたが、それ以上に強い光が灯っていた。
こうして飛行場には再び金属の打撃音と工具の叩く音が響き、タカカゲの飛行船――メンデルスゾーンは、スチーム・フィールドの手で空を飛ぶ準備を始めた。




