73. 夜を駆ける影と迫りくる暴風
湿った夜気が立ちこめる貧民街を、一人の影が必死に駆けていた。
革靴が石畳を叩く軽い乾いた音。
そのたびに胸の奥で焦燥が激しく燃え立つ。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
走るのはアマテラスだった。
タカカゲをノートン診療所へ送り届けたものの、シアンが“ひとり”でルーグレムのアジトへ向かったという現実が、頭から離れなかった。
胸が苦しいのは、走っているせいだけではない。
──親友が傷ついた。
タカカゲは血だらけで、自分の腕の中で涙を流した。
彼を抱え、必死で運び、手当てを受けさせた。
それで役目は終わったはずだった。
普通の人間なら、安心して帰るところだ。
彼は——シアンは違った。
彼は自分が怪我をするより、誰かの痛みを優先し、迷わず危険の中心へ飛び込んでいった。
見ず知らずの人のために命を賭ける男。
それを知ってしまった以上、ただ見ているだけなど到底できなかった。
(僕も……! 僕にも、なにか……!)
気づけば、走っていた。
診療所を飛び出し、会社へ戻り、社長室の壁に飾られていた“父の形見”の飛行用ヘルメットを被った。
操縦ゴーグルを目に掛け、腰には父から譲り受けた小さな護身用拳銃を差し込んだ。
自分でも信じられない。こんな危険な真似は性に合わない。
だが、足は止まらなかった。
「どうしたんですかね僕は! こんなこと……僕の柄じゃないのにっ!」
息を切らしながら、アマテラスは夜の路地を駆け抜ける。
本当は分かっていた。
シアンの無鉄砲さに胸が熱くなったのではない。
スチーム・フィールドの人たちの優しさに触れたことでもない。
——親友の夢を踏みにじられた怒り。
そして、その夢を守ろうとしている青年を、見捨てられるはずがなかった。
「はぁっ……! シアンくんっ、無事でいてくださいよ……!」
そう叫びながら、アマテラスが曲がり角へ飛び込んだ、その瞬間だった。
ドンッ──!
「わっ、うわあっ!」
アマテラスは何かにぶつかり、そのまま尻もちをついた。
「いたたた……。あっ!」
見上げたそこには、男が仁王立ちしていた。
黒いスーツに金のネックレスに、手首には分厚い革のガントレット。
彫りの深い顔つきに、鋭い眼光。
夜の暗がりでも桁外れの存在感を醸し出すその姿。
その腕には、独特の紫色の花の模様の刺繍。
アマテラスは凍りついた。
それはこのアルディス最大のマフィア、ラッドベイルだった。
その男は、蒸気の心臓の騒動が起きたあの日の夕方に中央広場でシアンに喧嘩を売り、拳を交えた男だった。
生きた心地がしない。
殴られる。蹴られる。連れて行かれる。
そんな未来が瞬時に脳裏をよぎり、反射的に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!!」
しかし男は意外にも穏やかな声で、アマテラスへ手を差し出した。
「わりぃな」
「え……?」
掴まれた腕がぐっと強く引かれ、アマテラスはすっと立たされる。
混乱する。
ラッドベイルが、まさかの“助け起こし”。
ありえない光景に、アマテラスの思考が止まる。
「ん? あんちゃん、アマテラス飛行商の若社長さんじゃねぇか。悪いが、今日はこの辺は危ねぇ。帰ったほうがいいぞ」
「え……? あ、危ない?」
アマテラスは周囲を見回した。
建物の影から無数の男たちが姿を表した。
肩に入れ墨を覗かせた者、鉄パイプを持つ者、拳銃を隠し持った者。
息を潜めながらも、殺気だけは隠れていない。
その全ての腕には、男と同様にラッドベイルのトレードマークの紫色の花の模様の刺繍。
「こ、こんなに……!? いったい何が……」
「んー……あー……。まあ、街のヤツらにはそのうち耳に入っちまうか」
男は髪をかきながらため息をつく。
「オヤジからの指示でな。今夜、ラッドベイルはルーグレムをぶっ潰す。ディルモットの兄貴はやりすぎた」
「……!」
アマテラスの胸がざわめく。
ルーグレムは暴力と略奪を繰り返し、街の秩序を壊し続けていた。
その悪行はついに、“街のマフィアの頂点”ラッドベイルが見過ごせなくなるほどだった。
「そっ、そうなんですか……!」
震えた声を出しながら、アマテラスは勇気を振り絞り、口を開く。
「あっ! 僕の知り合いが、今ひとりでルーグレムに乗り込んでて……シアンくんって言って、オレンジ色の髪で左手が蒸気兵装の──!」
「ああんッ!? そりゃスチーム・フィールドんとこのガキじゃねえか!」
男は鋭く目を光らせた。
どうやら、シアンの顔が鮮明に脳裏へ浮かんだらしい。
「はい! 僕の友人が襲われて……その敵討ちに……!」
「へぇ……あの野郎、シアンって名前か」
男はチッと舌を打ちながらそう言う。
「社長さんよ。悪いがな……戦争が始まれば混乱は避けられねぇ。アイツも……巻き込まれちまうかもしれねぇ」
「そんな……! なにか、なにか方法は……!」
アマテラスは必死に食い下がる。
友人を夢を守るためなら、マフィアにすがることすら恥ではなかった。
「まぁなぁ……。アイツには俺もやられちまったが……オヤジは“無関係なやつは巻き込むな”って言ってるしなあ」
男は困り顔で頭をかく。
「アイツを見つけたら、なるべく巻き込まんように声かけてみるわ。そんな訳でこんな所からさっさと立ち去るんだな」
男はそう言い背を向けたが、アマテラスは咄嗟に男の腕をつかんだ。
「待ってください! ぼ、僕も連れて行ってください!」
「……は?」
「これから彼が危険に巻き込まれるかもしれないなら、見過ごせません!」
必死で訴えるアマテラスの目。
その瞳は、覚悟を決めた人間特有の鋭い熱を宿していた。
「……あのな社長さんよ。死ぬかもしれねえぞ?」
「それでも行きます!」
迷いは一切なかった。
男は鼻で笑い、肩をすくめた。
「……ったく。流れ弾に当たっても文句言うなよ?」
アマテラスは深く頷いた。
こうしてラッドベイルの構成員たちとアマテラスは、闇夜へ消えていく。
その先で、シアンとディルモットが死地で激突していることを、誰一人知らないまま。




