70.闇を裂く怨念
ソファに深く腰掛け、部下たちの戦いを眺めながら愉快そうに笑っていたディルモットが、不意に笑みを引っ込めた。
酒瓶を机へ置くと、ゆっくりと立ち上がる。
重い革靴が床を鳴らし、そのまま部屋の奥へ続く扉へ歩き始めた。
その背中をシアンは静かに見据え、低く響く声で呼び止めた。
「……おい待てよ。逃げるのか?」
雷をまとった左腕をだらりと下げたまま問いかけると、ディルモットは足を止めたものの、振り返ろうとはしなかった。
「逃げる? 勘違いすんなよ、ガキ」
肩越しに吐き捨てる声には、先ほどまでの余裕が残っている。
しかし、その奥底には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「万が一だ。万が一、お前がこいつらを倒した時のために、少し準備をするだけだ」
そこでようやく首だけをわずかに傾ける。
「せいぜい頑張れ。そこまで辿り着けるならな」
扉が閉まり、ディルモットの姿が消える。
部屋に残されたのは、シアンと二人の幹部だけだった。
「……だとよ」
巨漢が首を鳴らしながら前へ出る。
蒸気兵装の内部でピストンが脈打ち、白い蒸気が肩口から噴き上がった。
「そろそろ終わりにしてやるよ!」
その隣のチェーンソーを構えていた男は舌打ちすると、武器を乱暴に床へ放り投げた。
「近づけねぇなら撃ちゃいいだけだ」
歯を見せて笑い、チェーンソーの代わりに懐から拳銃を抜き迷いなくシアンへ銃口を向ける。
「ボスが出るまでもねぇ。ここで終わりだ」
乾いた破裂音が部屋に響いた。
火花を散らしながら飛び出した弾丸は、一直線にシアンの眉間を狙う。
だが、その瞬間にはもう、そこにシアンの姿はなかった。
弾丸は空を裂き、背後の壁へめり込む。
「……は?」
男の笑みが凍りつく。
シアンは静かに一歩だけ位置をずらしただけだった。
左腕ではレヴィンコアが低く唸り、青白い電流が義手の隙間を這っている。
電気が走っているのは義手だけではない。
微弱な電流は神経へ流れ込み、脳から筋肉へ伝わる命令を極限まで加速させていた。
指先の力み。肩の入り方。呼吸の変化。
引き金へ掛かる人差し指のわずかな動き。
それらを目で認識するより早く、身体が先に反応する。
「ば……馬鹿な」
男は思わず一歩退いた。
「銃を避けた……?」
シアンは答えない。
ただ左腕をゆっくり持ち上げる。
次の瞬間。
バシュゥゥゥンッ!!
ワイヤーアンカーが一直線に射出され、男の胴へ巻き付いた。
「しま──」
男が言い終える前に、シアンが静かに拳を握ると雷光がワイヤーを駆け抜けた。
ガリィィィィッ!!
青白い閃光が部屋を照らし、男の身体が激しく跳ね上がる。
「ぐあああああああぁぁぁッ!!」
絶叫は長く続かなかった。
全身を痙攣させた男は白目を剥き、そのまま力なく床へ倒れ伏す。
焦げた臭いだけが静かに漂った。
シアンはシュルシュルと音を立てながら鋼線を義手へとしまい込む。
視線はもう、一人だけを見据えていた。
「これで……お前だけだ」
その静かな一言に、巨漢の顔が怒りに染まる。
「ぶっ殺す!!」
怒号とともに蒸気兵装が咆哮した。
圧縮蒸気が一気に解放され巨大な右腕が膨れ上がり、装甲の内側から分厚い刃がせり出した。
「死ねぇぇぇぇッ!!」
床を踏み砕く勢いで突進するが、シアンの姿はすでに軌道から消えていた。
横へ半歩、ただそれだけで巨漢の渾身の一撃は空を裂く。
「なっ——」
驚愕に目を見開いた腹部へ、シアンの拳がめり込む。
鈍い衝撃が、巨漢の身体を折る。
続けざまに顎、側頭部、鳩尾と連続で拳を叩き込む。
一撃ごとの威力は決して大きくない。
それでも、決して外れない、避けられない。
巨漢が振るう刃は壁を裂き、床を抉るばかりで、シアンの身体には指先一つ届かなかった。
時間だけが過ぎていく。
やがて男の肩は大きく上下し、足元はふらつき始めていた。
腫れ上がった頬から血が流れ、蒸気兵装の駆動音も苦しげに乱れる。
「な……なんなんだよ、お前……」
巨漢が肩で息を切らしながら呻く中、シアンは静かに息を吐いた。
「なんなんだって……そうだな」
金色の瞳が真っ直ぐ男を射抜く。
「俺は、お前たちに踏みにじられてきた人たちの——、怨念ってやつかな」
その言葉に、男の肩がびくりと震えた。
「ふ……ふざけんなぁぁぁッ!!」
最後の力を振り絞り刃を頭上高く振り上げ、雄叫びとともに渾身の一撃が振り下ろした。
だがシアンは一歩も退かず、ただ左手を静かに差し出す。
ガキィィィンッ!!
鋼と鋼が激突する轟音。
リベラルナックルが巨大な刃を真正面から受け止め、そのまま握り締めると金属が悲鳴を上げた。
ミシッ……ギリギリギリ……。
そして——
バキンッ!!
刃が根元からへし折れ、鉄片が床へ転がり乾いた音を響かせる。
「あ……」
男の顔から血の気が引く。
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
握っていた武器は、もう半分しか残っていなかった。
「す、すまねぇ……!」
震える声で、額を床へ擦りつけるようにして命乞いをする。
「頼む……もう勘弁してくれ……! 俺だって逆らえなかったんだ……! ボスに命令されて……仕方なく……!」
シアンは何も答えない。
怒鳴ることも、嘲ることも。
ただ静かに、その男を見下ろしている。
その瞳に宿っていたのは怒りではなく、積み重ねてきた罪の行き着く先を見届ける者だけが持つ、冷たい静けさだった。




