69.雷核
重たい鉄扉が、ゆっくりと軋みを上げる。
ギィ……という鈍い音が部屋いっぱいへ広がり、開いた隙間から白い蒸気が静かに流れ込んだ。
左腕から立ちのぼる蒸気を夜気へ溶かしながら、シアンはゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
酒瓶が転がり、笑い声と怒鳴り声が入り混じっていた室内は、その瞬間だけ水を打ったように静まり返る。
誰もが侵入者へ視線を向けていた。
だがシアンは、その誰一人として見てはいない。
金色の瞳が真っ直ぐ見据えているのは、部屋の最奥で大きなソファへ深く腰掛ける一人の男だけだった。
ディルモット・ユークリウス。
その男だけを、獣が獲物を見定めるような静かな眼差しで捉えている。
しばらくの沈黙のあと、ディルモットが酒瓶を揺らしながら口を開いた。
「……誰だ、お前は」
低く濁った声だった。
シアンは歩みを止めることなく、わずかに片眉を上げる。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
視線は外さない。
「あんたが、このルーグレムのボス……ディルモットで間違いないか?」
「そうだが……?」
ディルモットは怪訝そうに目を細める。
やがて何か思い当たったように口元を歪めると、周囲の部下たちへ顎をしゃくった。
「なるほどな」
肩を揺らして笑う。
「若ぇし腕っぷしもありそうだ。新入り志望ってところか?」
部屋のあちこちから笑い声が上がる。
「見張りどもも気が利くじゃねえか」
シアンは小さく鼻で笑った。
「残念」
短く答える。
「全然違ぇよ」
その一言で空気が変わった。
バンッ!!
勢いよくテーブルが叩かれ、一人の幹部が立ち上がる。
「おいガキ!」
怒鳴りながら一歩前へ出る。
「誰に向かって口利いてるか分かってんのか!」
その直後だった。
別の男が開け放たれた扉の外を何気なく覗き込み、そのまま動きを止める。
血の気が引いていく。
「……ぼ、ボス!」
震えた声だった。
「大変です!」
部屋中の視線が男へ集まる中、男は恐る恐る廊下を指差した。
「通路が……」
唾を飲み込む。
「仲間が……全員やられてます」
室内にざわめきが広がる。
ディルモットは面倒そうに立ち上がると、ゆっくり扉の外へ目を向けた。
そこには、廊下いっぱいに折り重なるように倒れ伏した部下たちの姿があった。
誰一人として立ち上がる者はいない。
その光景を眺めても、ディルモットは怒るどころか喉の奥で笑った。
「そういうことか」
酒瓶を机へ置く。
「若いからって舐めてたら返り討ちにされたってわけだ」
その笑みが、ゆっくりと獰猛さを帯びていく。
「派手にやってくれたじゃねえか」
シアンは何も答えない。ただ静かに立っている。
「だがな」
ディルモットが指を一つ鳴らした。
乾いた音が部屋へ響く。
その合図だけで三人の男が立ち上がった。
一人は蒸気兵装を装着した巨漢。
一人は小型チェーンソーを肩へ担いだ細身の男。
そしてもう一人は、指先で器用にナイフを弄ぶ痩せた暗殺者。
三人が並ぶだけで床板が軋み、室内の空気が重く沈む。
しかし、その威圧感の中でもシアンの表情は変わらなかった。
むしろ小さく笑う。
「来いよ」
その一言で火蓋が切られた。
最初に飛び出したのはナイフ使いだった。
白刃が一直線に喉元を狙う。
シアンは足元の椅子へ軽く足を添え、それを蹴り上げる。
宙へ舞った椅子が刃を受け止めた。
甲高い金属音が響く。
男の体勢がわずかに崩れる。
その隙を狙い、今度は巨漢が蒸気を噴き上げながら拳を振り下ろした。
轟音。
シアンは身体を低く沈め、滑るようにテーブルの陰へ潜り込む。
拳が机を叩き潰し、木片が部屋中へ飛び散った。
「逃がすかァ!」
チェーンソーが唸りを上げる。
シアンは倒れかけた棚を蹴り飛ばし、その影へ身を滑らせる。
回転する刃が棚を細切れに砕くと同時に、木屑が雪のように舞い散った。
部屋は瞬く間に修羅場へ変わる。
しかし、その中でシアンだけは一度も拳を振るわなかった。
避ける。流す。かわす。
それだけで三人の猛攻を受け流していく。
「なんで当たらねえ!」
「囲め!」
「逃がすな!」
怒号が飛び交う。
その声を聞き流しながら、シアンは静かに後ろへ下がった。
左腕へ視線を落とす。
「……そろそろだな」
義手の中央へ指を掛ける。
カチリ。
小さな音を立ててカートリッジが抜き取られた。
「戦いの最中に何やってやがる!」
幹部が叫ぶ。
だがシアンは構わない。
腰のポーチから一本の新しいカートリッジを取り出す。
蒸気を纏うヴェイパーコアでも、光り輝くエーテルコアでもない。
彼自身が調整を重ねて完成させた、新たな力。
シアンの口元に静かな笑みが浮かぶ。
「悪い」
カートリッジを義手へ差し込む。
「ここからは、こっちの番だ」
カチリ。
装填された瞬間だった。
ジジジジッ――。
義手の隙間から青白い電流が走り、空気そのものが震え始める。
細かな火花が拳の周囲を踊り、髪が静電気でわずかに揺れた。
「《レヴィンコア》」
その名が静かに告げられた瞬間、部屋の空気が一変した。
「ひっ……」
誰かが思わず息を呑む。
ナイフ使いが恐怖を振り払うように叫びながら飛び込んできた。
「舐めるなァァァッ!」
一直線に振り下ろされる刃。
シアンは半歩だけ踏み込み、迎え撃つように左拳を突き出した。
拳が男の頬へ触れた、その瞬間。
ガリィィィィンッ!!
轟く雷鳴。
青白い稲妻が拳から弾け、男の全身を一瞬で飲み込む。
「が……あああああぁぁぁッ!!」
絶叫が部屋を震わせる。
身体は激しく跳ね上がり、そのまま床へ叩きつけられた。
焦げた匂いがゆっくりと立ち込める。
男は白目を剥いたまま動かない。
静まり返った部屋の中で、シアンはゆっくりと顔を上げた。
その金色の瞳が、ソファに腰掛けるディルモットを射抜く。
ディルモットはその視線を真正面から受け止めると、肩を震わせながら愉快そうに笑った。
「ははっ……!」
酒瓶を持ち上げる。
「面白ぇじゃねえか」
その笑みはますます深くなる。
「だがよ」
ソファへ背中を預けたまま、残った二人の幹部へ顎を向ける。
「俺のところまで来るには……まだ二人、越えなきゃならねぇぞ」
まるで、この先に流れる血を心待ちにする悪魔のような笑みだった。




