68.蒸気の咆哮
シアンが地面へ降り立った、その瞬間だった。
入口を見張っていた男たちの空気が一変する。
それまで煙草をふかしながら気怠そうに立っていた視線が、一斉に侵入者へと向けられた。
長年裏社会で生きてきた人間だけが持つ勘だった。
目の前に現れた青年が、ただの通行人ではないことを本能が告げている。
「てっ、敵襲だッ!!」
怒号が夜の路地へ響き渡る。
数人の男たちが一斉に武器を抜き放ち、怒鳴り声を上げながらシアンへ飛びかかる。
その様子を見ても、シアンは一歩も動かなかった。
むしろ、わずかに口元を緩める。
「へぇ……反応だけは悪くねえな」
左腕をゆっくりと持ち上げる。
灰色の金属が月光を受けて鈍く輝き、その内部では歯車が噛み合い始める。
蒸気圧が一気に高まり、義手全体が低く唸った。
「じゃあ──派手に始めようぜ!」
次の瞬間だった。
ボシュゥゥゥッ!!
轟音とともに圧縮蒸気が噴き出し、濃密な白煙が爆発するように周囲へ広がっていく。
わずか数秒で視界は完全に閉ざされた。
「うおっ!?」
「なんだこの煙は!」
「見えねぇ!」
「どこへ行きやがった!」
怒号が四方八方から飛び交う。
焦りに満ちた足音が石畳を乱雑に叩き、剣が空を切る音だけが蒸気の中へ虚しく響いていた。
その白い世界の中で、静かな呼吸だけがあった。
シアンは音もなく踏み込み、一人目の背後へ滑り込む。
振り向く暇さえ与えず、義手の拳が後頭部を打ち抜いた。
鈍い衝撃音とともに男の身体が崩れ落ちる。
そのまま身体を反転させると、次の敵が足音だけを頼りに剣を振るってきた。
シアンは紙一重で身をかわし、懐へ潜り込む。
ガツンッ!
拳が顎を捉えた瞬間、小さく蒸気が噴き出す。
圧縮蒸気の反動を乗せた一撃に男の身体は軽々と宙を舞い、そのまま石畳へ叩きつけられた。
「ぐぁっ……!」
悲鳴は最後まで続かなかった。
「ど、どこだ……!」
恐怖に震えた声が煙の向こうから聞こえる。
その直後、男の肩へ一つの手が静かに置かれた。
「悪いな」
耳元で囁くような声だった。
「なるべく手加減はしてやるよ」
男が振り向くより早く、義手の指先がわずかに変形する。
カチリ、と小さく響く機械音。
次の瞬間には、その首元を掴んだ拳がゆっくりと力を込めていた。
蒸気兵装の握力に抗えるはずもない。
男は苦しむ間もなく意識を失い、その場へ崩れ落ちる。
やがて蒸気が夜風に流され始める頃には、入口を守っていた見張りたちは一人残らず地面へ倒れていた。
シアンは肩を軽く回し、小さく息を吐く。
「ま……所詮は前座か」
そのまま巨大な鉄扉へ歩み寄る。
錆びついた扉へ手を掛けると、重々しい金属音を響かせながらゆっくりと押し開いた。
軋む音とともに現れた薄暗い廊下には、酒と煙草、それに香水の匂いが混ざった不快な空気が淀んでいる。
「な、なんだお前!」
物陰から飛び出した男が短剣を突き出す。
シアンは半歩だけ身体をずらし、その刃を紙一重でかわすと、すれ違いざまに男の襟首を掴み上げた。
「いきなり刃物か」
少し呆れたように笑う。
「教育だけは行き届いてるな」
そのまま勢いを利用して壁へ叩きつける。
鈍い音とともに男の身体が崩れ落ち、動かなくなった。
そこから先は、一方的だった。
曲がり角を抜けるたび、新たな構成員が飛び出してくる。
怒鳴り声を上げる者。
無言で斬りかかる者。
銃を構える者。
誰もが自分こそ止められると信じていた。
しかし、そのすべてをシアンは最小限の動きでいなし、確実に沈めていく。
時にはワイヤーアンカーを天井へ撃ち込み、一瞬で頭上へ跳ぶ。
次の瞬間には敵の背後へ降り立ち、反撃の暇も与えず拳を打ち込む。
「どこだ!」
「見失った!」
「上だ!」
叫び声が上がった時には、もう遅い。
拳が閃き、男たちは次々と床へ倒れていく。
一人の構成員が震える手で拳銃を構えた。
乾いた銃声が廊下へ響く。
だが弾丸が壁へ食い込む頃には、シアンの姿はもうそこになかった。
床へ撃ち込んだワイヤーアンカーを利用し、一瞬で射線から滑り出ていたのである。
「危ねえな」
いつの間にか目の前へ立っていたシアンが苦笑する。
「あと撃つなら、ちゃんと当てろよ」
男の表情が恐怖に染まる。
その顔へ義手の拳が静かに触れた。
ただ、それだけだった。
男は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
廊下を進むにつれ、騒がしかったアジトは静かになっていった。
酒を飲み、大声で笑っていた者たちは、仲間が次々と倒れていく音だけを聞きながら、得体の知れない恐怖に顔を引きつらせていく。
蒸気が噴き上がる音。
歯車が噛み合う音。
拳が肉を打つ鈍い衝撃音。
それだけが建物の奥へ奥へと響き渡り、まるで怪物が一歩ずつ近づいてくる足音のように、ルーグレムの構成員たちの心を蝕んでいった。
やがてシアンは、一枚の大きな鉄扉の前で足を止める。
扉の向こうからは、酒瓶のぶつかる音と下品な笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
ディルモット・ユークリウス。
そして、その取り巻きたち。
ようやく、本命へ辿り着いた。
シアンはゆっくりと息を吸い込み、左拳を軽く握る。
義手の奥で歯車が噛み合い、静かな蒸気音が低く響いた。
「……さて」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ここからが、本番だ」
そう呟きながら鉄扉へ手を掛ける。
拳の隙間から細い蒸気が白く立ちのぼり、その静かな咆哮を合図にするように、重い扉はゆっくりと開き始めた。




