67.月影、怪物の門を叩く者
アルディス西区。
昼なお薄暗いと噂されるこの一角は、夜になれば街灯の明かりさえ闇に飲み込まれ、まるで別の街へ迷い込んだかのような静けさに包まれていた。
飛行場から少し離れた貧民街。
崩れかけた煉瓦造りの建物が肩を寄せ合い、割れた窓からは冷たい風が吹き抜ける。
道端には煤と瓦礫が積もり、油の染み込んだ石畳からは、古い機械油の匂いが湿った夜気とともに立ち上っていた。
人々に忘れられたようなその街角を見下ろすように、一棟の古びた集合住宅が建っている。
その屋上で、シアンは静かに腰を下ろしていた。
吹き抜ける夜風が青いジャケットの裾を揺らし、雲の切れ間から差し込む月明かりが、金色の瞳を淡く照らす。
その視線の先には、フィーナから聞き出した情報を頼りに辿り着いたルーグレムのアジトがあった。
入口では数人の男たちが煙草をくわえ、退屈そうに壁へ寄りかかっている。
警戒しているというより、誰も自分たちへ牙を剥く者など現れないと信じ切っているような気の抜けた様子だった。
シアンはその光景をしばらく黙って眺め、小さく息を吐く。
「……あそこか」
低く漏れた声は、夜風に紛れて消えた。
そしてゆっくりと左腕へ視線を落とす。
そこには灰色の金属が月光を受けて静かに輝いていた。
新たなる相棒、リベラルナックル。
何度も修理され、何度も共に戦ってきた蒸気兵装とは違う。
まだ誰とも戦ったことのない、新しい拳だった。
シアンはその義手を軽く握り、静かに笑う。
「さあ、相棒……初陣だ」
まるでその言葉へ応えるように、内部の歯車がゆっくりと噛み合う。
ギリ……
小さく響いた機械音が夜の静寂へ溶けていく。
月光を浴びた金属は冷たく輝きながらも、不思議なほど生命感を帯びて見えた。
まるで戦いの始まりを待ち望んでいたかのように。
その頃。
ルーグレムのアジトでは、品の欠片もない宴が続いていた。
酒瓶は床へ無造作に転がり、割れたガラス片を誰も気にすることなく踏みつける。
濁った酒の匂いと煙草の煙が部屋中に立ち込め、耳障りな笑い声が絶え間なく響いていた。
その中心に腰を下ろしている男。
ルーグレムのボス、ディルモット・ユークリウス。
長身の身体には無駄な肉が一切なく、鍛え上げられた筋肉の上を黒い刺青が腕から首筋へと這っている。
右目の下には一本の古い傷跡。
笑うたびにその傷が歪み、残忍な表情をより際立たせていた。
「ボス、それで例の飛行船はどうするんです?」
酒を煽っていた部下が尋ねる。
ディルモットはグラスを傾けたまま鼻で笑った。
「どうするも何もねえさ。鍵は手に入ったんだ。あとはあの野郎を始末して船ごといただくだけだ」
酒を一気に飲み干し、大きく笑う。
「そのまま旅行にでも行くか?」
部下たちも下品な笑い声を上げた。
しかし、一人の男が苦笑しながら首を傾げる。
「いや、ボス……あの船、ボスがぶっ壊したじゃないですか。貸せって言って断られて腹立ってさ」
「あ?」
ディルモットは一瞬だけ考え込むような顔をしたあと、豪快に笑い出した。
「ああ、そうだったな!」
腹を抱え、涙を浮かべるほど笑う。
「じゃあスクラップにでもして売っちまうか。酒代くらいにはなるだろ!」
再び部屋中が笑いに包まれた。
彼らにとって他人の夢など、酒の肴にもならない。
力こそが正義。
奪える者が奪い、弱い者は踏みにじられる。
それがルーグレムという組織だった。
「明日もう一回行くぞ」
ディルモットは足を組み替えながら続ける。
「飛行船も、金も、全部持ってくる。邪魔する奴がいたら……分かってるな?」
「へい!」
部下たちが一斉に声を上げる。
誰一人として、自分たちが負ける未来など想像していなかった。
ラッドベイルですら持て余した異端の怪物。
その男を頭にいただく自分たちが、この街で最も恐れられる存在なのだと信じて疑わない。
だからこそ気づかなかった。
今まさに、自分たちのすぐ外まで、別の”怪物”が歩み寄ってきていることを。
冷たい夜風が路地を吹き抜ける。
窓の隙間から漏れる笑い声は、屋上にいるシアンの耳にもはっきりと届いていた。
「……よく笑えるもんだな」
ぽつりと漏れた声には怒鳴るような激しさはない。
その代わり、底知れない静けさがあった。
深い海の底に沈んだような、冷たい怒り。
シアンはゆっくりと左腕を持ち上げる。
リベラルナックルを正面へ向け、照準を定める。
カチリ――
内部で歯車が噛み合い、蒸気圧が一気に高まっていく。
そして。
バシュンッ!!
轟音とともにワイヤーアンカーが射出され、夜空を一直線に切り裂いた。
鋼線はアジトの入口脇へ深々と突き刺さり、巻き取り機構が勢いよく作動する。
強烈な牽引力に身体を預けたシアンは、夜の闇を裂く一筋の影となって宙を駆けた。
月を背負い、風を切り裂きながら、一気に地上へと降下する。
そして重い着地音とともに、入口の目前へ降り立った。
突然現れた人影に、見張りたちが目を見開く。
「な、なんだ、お前――!」
シアンはゆっくりと顔を上げる。
金色の瞳が月明かりを映し、その左拳を静かに握り込んだ。
金属の関節が低く唸り、リベラルナックルが獣の息遣いのような音を響かせる。
「よぉ」
口元にわずかな笑みを浮かべる。
「今から少し、騒がしくなるぜ」
その一言を合図に。
誰かの夢を踏みにじった者たちへ、静かな報復の夜が幕を開けようとしていた。




