66.灯る者たちの影と誓い
シアンと言葉を交わしたあと、タカカゲはアマテラスに肩を貸されながら、西地区の飛行場をあとにした。
夕暮れのアルディスは、街並みを茜色に染め始めていた。
中央広場へ向かう石畳には、人々の長い影が伸び、露店からは威勢のいい呼び声が響いている。
誰もがいつも通りの一日を過ごしているはずなのに、タカカゲの胸だけは重く沈んだままだった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、壊された飛行船メンデルスゾーンの姿。
ようやく掴んだ夢を、理不尽な暴力で踏みにじられたあの光景が、夕日に照らされる街並みと重なって何度も胸を締めつける。
やがて二人が辿り着いたのは、中央区の一角に建つノートン診療所だった。
決して大きな診療所ではない。
それでも、この街で怪我や病に倒れた者なら、誰もが真っ先に頼る場所だった。
診察を終えたドクター・ノートンは、大きな腕を組んだまま一つ頷く。
「……うむ。外傷は酷いが、脳も内臓にも異常は無いようだ」
そう言ってタカカゲの顔を見る。
「ただし……そうだな。二日は安静にした方がいい。うちのベッドで大人しくしているんだ」
その傍らでは、看護師でありノートンの妻でもあるルナが、優しく微笑んでいた。
「本当に派手に怪我をしちゃいましたね。無理しちゃダメよ」
包帯を巻き終えた彼女の穏やかな声に、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
タカカゲはベッドへ身を預けると、胸の奥に溜まっていた息をゆっくりと吐き出した。
悔しさも、情けなさも消えたわけではない。
それでも命が助かったという事実だけは、少しだけ心を軽くしてくれた。
「……すまない、先生。恩に着るよ」
「先生、ありがとうございます」
隣の椅子に腰掛けたアマテラスも、深々と頭を下げる。
その表情には安堵が浮かんでいた。
だが、その胸の内には別の不安が静かに渦巻いている。
今ごろシアンは、たった一人でルーグレムの根城へ向かっている。
あの青年ならきっと大丈夫だ。
そう信じていても、心配せずにはいられなかった。
そんな胸の内を見透かしたように、タカカゲが静かに口を開く。
「アマテラス……そういえば、何故お前とあの人たちは俺のところへ?」
「あ、ああ……」
アマテラスは思い出したように頷いた。
「そういえば、その話をまだしてなかったね……実は――」
椅子へ腰を下ろすと、シアンたちが飛行場へやって来た理由をゆっくりと語り始めた。
その頃、スチーム・フィールドでは修理の準備が慌ただしく進められていた。
「カイ! 制御管の測定器と外装板を積んどきな!」
工房いっぱいにグレンダの声が響く。
「ルシア、お前さんは工具箱の整理! 格納庫の飛行船をすぐに直せるようにするよ!」
「はい!」
二人は返事をすると、それぞれの持ち場へ散っていく。
工具の音が鳴り響き、工房はいつもの活気を取り戻していた。
しかし、その中でふとルシアの手が止まる。
工具を握ったまま俯き、不安そうに唇を結んでいた。
そんな彼女の様子に気づいたカイが、優しく声を掛ける。
「……お姉ちゃん、心配なの?」
ルシアは少し困ったように笑う。
「はい……」
シアンの強さを忘れたわけではない。
それでも、今回の相手は一人や二人では済まない。
そんな不安が胸から離れなかった。
するとカイは、いつものように屈託なく笑った。
「大丈夫だよ!」
その言葉には迷いがない。
「お姉ちゃん、地下で見たでしょ? あの兄貴の強さ!」
帝国軍特殊部隊、錆翼のスピアーを打ち倒した男。
あの時のシアンは、絶望を切り裂く刃そのものだった。
だが、それでもルシアは静かに首を振る。
「でも……今回の相手はきっとたくさんいます。一人で相手をするには……」
「心配いらないよ!」
カイは胸を張った。
「兄貴は”スモーク・ウォーカー”なんだから!」
その名を聞いた瞬間、ルシアの目がわずかに見開かれる。
アルディスの裏社会で語り継がれる伝説。
煙のように現れ、悪を裁いて姿を消す男。
「たくさんの悪者を倒してきたアークラインの裏社会の伝説! だから兄貴が負けるわけないよ!」
その笑顔には、一片の迷いもなかった。
兄を信じる気持ちが、そのまま言葉になっていた。
その姿を見ていると、不思議とルシアの胸にも少しだけ勇気が灯る。
「……はい。そうですね」
不安が消えたわけではない。
それでも彼女は小さく微笑むと、再び工具箱へ手を伸ばした。
同じ頃。
夜の帳が下り始めたランプ通りでは、赤い電飾が石畳を妖しく照らしていた。
娼館——《ルビーの小径》。
その一室で、シアンは黒髪の情報屋フィーナと向かい合っていた。
「——以上がルーグレムについてよ。他に何か聞きたいことはあるかしら?」
フィーナは長い黒髪を耳へ流しながら、ゆっくりと脚を組み直す。
「助かったよ、フィーナ」
シアンは頷いた。
「それにしても……ルーグレムのボスがディルモット・ユークリウスとはな」
その名を口にした瞬間、左腕の義手が低く軋む。
ディルモット・ユークリウス。
かつてラッドベイルのボスの右腕として恐れられた男。
しかし、その残虐さゆえに組織から追放された異端の怪物。
「それにしても」
フィーナが妖艶に微笑む。
「スモーク・ウォーカーがマフィアとぶつかるなんてね。どういう風の吹き回しかしら?」
シアンは肩をすくめた。
「ちょっと、夢を傷つけられた男の仕返しにな」
義手の指先が、机を軽く叩く。
「それと今回は――“スモーク・ウォーカー”としてじゃねえよ」
一拍置いて、静かに続けた。
「シアン・クロウ=フィールドとして行く」
その言葉に、フィーナは目を細める。
「夢を傷つけられた男……。なるほど、あの飛行場の件。あなたたちも関わっているのね」
「ほんと、お前は耳が早いな」
シアンは苦笑しながら立ち上がった。
「ってわけで、ちょっくら怪物退治してくるわ」
軽く手を振ると、そのまま部屋をあとにする。
扉が静かに閉まり、部屋に再び静寂が戻った。
残されたフィーナは、グラスを揺らしながら小さく呟く。
「ルーグレム……」
その唇に妖しい笑みが浮かぶ。
「あなたたち……怒らせちゃいけない人を怒らせたわね」
窓の外では、夜のアルディスに無数の灯りがともり始めていた。
その光のどこかで、一人の青年が誰かの夢を取り戻すため、静かに歩みを進めていることを知る者は、まだ誰もいなかった。




