62.暗がりの街灯と帳簿の光
ルシアの導き出したひとつの結論は、スチーム・フィールドの空気を一瞬で変えた。
さっきまで工房を満たしていた機械油の匂いや、歯車が回る軽やかな音は、この街で生きる者にとって当たり前の安心できるものだったはずなのに、今はまるで重たい霧が流れ込んできたかのように、誰も言葉を発することができなかった。
「たしかに……」
グレンダは小さく呟きながら、ゆっくりと窓の外へ視線を向ける。
「なんでアタシは、そのことを考えてなかったんだろうね。すっかり平和ボケしちまってたよ」
暗くなり始めたアルディスの街では、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
蒸気の流れる白い管が淡い光を反射し、通りを行き交う人々の姿を静かに照らしている。
かつて軍靴の音が響き、砲火にさらされた場所とは思えないほど穏やかな夜の景色だった。
だが、その光を見つめるグレンダの瞳には、今とは違う過去の街の姿が浮かんでいるようだった。
「戦争が終わって四十年以上……」
グレンダの声は静かだった。
「でもね、あの血なまぐさい時代を思い出せば、ルシアの言うような人間が現れる可能性は十分にある」
かつてアルディスは前線基地だった。
何度も砲火に晒され、最後にはほとんど灰になった街。
それでも戦争が終わった後、人々は戻ってきた。
瓦礫の中から少しずつ街を作り直し、再び蒸気が立ちのぼる都市へと変えていった。
今のアルディスは、平和を願った人々が積み重ねてきた時間そのものだった。
だからこそ、グレンダはルシアの恐れを簡単に否定することができなかった。
「この国は今、あの頃と同じ……危うい分岐点に立ちかけているのかもしれないね」
そう呟いたグレンダの言葉が、静かな工房へ落ちていく。
しばらくして、シアンが義手を額へ当てながら深く息を吐いた。
「でもなぁ……急ぎたいのは山々なんだが」
視線を落とす。
「場所はククルカン渓谷だ。どう足掻いたって、普通に行けば最低でも一ヶ月はかかっちまう」
その言葉に、ルシアは肩をすぼめた。
「そ、そうですよね……」
申し訳なさそうに俯く。
「私、焦りすぎて……」
「いや」
シアンはすぐに首を振った。
「ルシアが悪いんじゃねえよ」
そう言って、少しだけ苦い笑みを浮かべる。
「むしろ、俺たちが考えなきゃいけないことをちゃんと考えてくれた」
優しい声だった。
けれど、その声の奥には焦りが隠しきれずに残っていた。
手掛かりは見つかった。
あと少しで届くかもしれない。
それなのに、時間だけが必要になる。
その事実が、シアンにとって何より歯がゆかった。
三人はテーブルを囲み、どうすれば一刻も早くククルカンへ向かえるのかを考え続ける。
そんな時だった。
「……!」
突然、カイが椅子を弾くように立ち上がった。
「そうだ!」
「な、なんだよカイ?」
驚いたシアンが振り返る。
するとカイは真剣な顔で言い放った。
「兄貴はちょっと黙ってて!」
「お、おう……」
勢いに押され、シアンは口を閉じる。
カイはそのまま工房の棚へ駆けていき、置かれていた物を次々と動かし始めた。
ガタガタと物を探す音だけが響く。
そしてしばらくして戻ってきたカイの腕には、一冊の分厚い帳簿が抱えられていた。
「帳簿?」
シアンが首を傾げる。
「なんでそんなもん持ってきたんだ?」
「いいから。一緒に見て」
カイはテーブルへ帳簿を広げた。
古い紙をめくるたび、時間を重ねた紙の匂いが工房へ広がっていく。
そこには、スチーム・フィールドで受けてきた依頼のすべてが細かく記されていた。
修理したもの。
依頼した人物。
仕事が終わっているか。
そして、支払いが済んでいるか。
カイは必死に指を走らせながら、一枚一枚ページを確認していく。
やがて、その指がひとつの場所で止まった。
「これ……!」
顔を上げる。
「やっぱりあった!」
カイが指差した欄には、こう書かれていた。
【依頼人、アマテラス飛行商】
【依頼、飛行船エルロン修理】
【作業状況、完了】
【依頼料、未払い】
「アマテラス……飛行商?」
ルシアが小さく呟く。
「グレンダさん!」
カイは期待に満ちた目で顔を上げた。
「この未払い分、帳消しにしてあげる代わりに飛空艇へ乗せてもらうって交渉できないかな!」
数秒の沈黙が流れる。
そして。
「……あんた」
グレンダの口元がゆっくりと緩んだ。
「そんなこと思いつくなんてねぇ」
杖を持ったまま、嬉しそうに笑う。
「さすがアタシの弟子だよ」
「すげぇじゃねえかカイ」
シアンも素直に感心した。
「よく覚えてたな」
するとカイは、にやりと笑う。
「そりゃあ覚えてるよ」
そして、じっとシアンを見る。
「だってこの修理、兄貴が前の日に飲みすぎて酔いつぶれたせいで、僕ひとりで飛行場まで行ったんだもん」
「……」
シアンの顔が固まる。
「お、お前……!」
慌てて声を上げる。
「あのことは内緒だって――」
「なんだって?」
その瞬間、グレンダの声が響いた。
杖がシアンの肩を軽く小突く。
「お前、あの仕事。“カイと一緒に”って言ったじゃないか」
「ぐっ……!」
言葉に詰まるシアン。
「カイ! なんで言うんだよ!」
「こんな時なんだし、ちょっと怒られるくらい我慢してよ」
カイは楽しそうに笑った。
重く沈んでいた工房の空気が、いつの間にか少しずつ柔らかくなっていた。
ルシアも、先ほどまで不安で揺れていた瞳をゆっくりと和らげ、静かに息を吐く。
「……うん」
小さく微笑む。
「なんだか、救われた気がします」
グレンダは杖をコツコツと鳴らしながら立ち上がった。
「さて」
その顔には、いつもの強さが戻っていた。
「カイのおかげで可能性が開けた」
そして三人を見る。
「なら――明日、早速飛行場へ向かうか」
顔を見合わせる。
そして、三人は同時に頷いた。
重苦しかった時間は過ぎ去り、再び希望へ向かう風が、スチーム・フィールドの工房へ流れ始めていた。




