60.消えた天才の残滓
閉館を知らせる鐘が鳴り終えた図書館には、昼間とは違う静けさが漂っていた。
窓から差し込む夕暮れの光が長い影を床へ落とし、誰もいなくなり始めた館内には、古い時計の針が進む音だけが静かに響いている。
そんな中、シアンたちは突然声を掛けてきた女性へ視線を向けていた。
銀色の髪をふたつに束ね、白い手袋を身につけたその女性は、穏やかな表情を浮かべながらも、どこか緊張した様子で三人を見つめている。
だが、彼女が口にした名前だけは、その場にいた全員の意識を一瞬で奪った。
「レオナール……」
ルシアが小さく呟く。
「今、レオナール・グレインと言いましたよね?」
その声には驚きと警戒が混じっていた。
帝国の歴史から消された存在。
蒸気の心臓を生み出した天才技術者。
その名を、この小さな街の図書館で聞くことになるとは思っていなかった。
シアンも女性の姿をじっと観察する。
「確かにな……」
腕を組みながら首を傾げた。
「なんであんたがレオナールの名前を知ってるんだ?」
そこでふと何かに気付く。
「あれ?」
女性の顔を見る。
「もしかして……あんたが新しい図書館の管理人か?」
街の男たちが騒いでいた理由が、ようやく分かった。
派手な美しさではない。
だが、控えめな仕草や柔らかな雰囲気、その奥に感じる知性が自然と人の目を引く。
確かに、あの連中が夢中になるのも無理はない。
女性は慌てたように頭を下げた。
「あっ……申し訳ありません。突然声を掛けてしまって」
そして姿勢を正す。
「私はパールと申します。このアルディス図書館で、最近管理人を任されることになりました」
三人もそれぞれ簡単に名乗り、改めて彼女と向き合う。
「それでさ」
最初に口を開いたのはカイだった。
「どうしてレオナールのことを知ってるの?」
少年らしい真っ直ぐな疑問だった。
「もしかして、今どこにいるのかも知ってたりするんですか?」
続けてルシアも尋ねる。
二人から一気に質問を浴びせられ、パールは目を丸くした。
「あ、あの……」
少し困ったように後ずさる。
「おいおい」
シアンが苦笑する。
「二人とも、パールさんが困ってるだろ」
「あ……」
「すみません」
カイとルシアが揃って頭を下げる。
その様子を見て、パールは小さく笑った。
「いえ……大丈夫です」
そう言って胸元へ手を当てる。
「私も、まさかこの場所でその名前を聞くとは思っていませんでしたから」
少しだけ遠い目をして、彼女はゆっくり語り始めた。
「私の父が……昔、レオナール博士と一緒に研究をしていたんです」
「親父さんが?」
シアンが眉を上げる。
「ってことは、帝国の研究員だったのか」
パールは静かに頷いた。
「はい」
ただ、その表情には少し寂しさが浮かんでいた。
「研究内容については、父も詳しく話してくれませんでした。きっと機密だったんだと思います」
「でも……」
一度言葉を止める。
「父がお酒を飲んだ時だけ、よく昔話をしていました」
その時だけは、子供の頃へ戻ったような顔をしていた。
「レオナール博士は本当に凄い人だった、と」
パールは微笑む。
「自分がどれだけ研究しても届かなかった。あんな天才は後にも先にもいないって」
静かな声だった。
「だから私も気になって、色々調べたんです」
しかし。
「でも、どこにもありませんでした」
指先が少しだけ強く握られる。
「歴史書にも、帝国の研究記録にも……レオナール・グレインという人物の記録は一切残っていなかった」
「まるで……」
小さく息を吐く。
「最初から存在しなかったみたいに」
その言葉に、シアンたちは黙り込んだ。
やはり。
レオナールは意図的に消されている。
「なるほどな」
シアンが静かに言う。
「でも悪いな、パールさん」
「俺たちもレオナールについてはまだ何も分かってねぇ」
そう言って机の上に積まれた資料を見る。
「だから、何か手掛かりがないかと思ってここへ来たんだ」
パールは首を横に振った。
「いえ……謝る必要なんてありません」
そして少しだけ笑う。
「むしろ……嬉しいです」
「嬉しい?」
ルシアが聞き返す。
「はい」
パールは頷いた。
「父が大切にしていた人の名前を、まだ覚えている人がいたんだって」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。
その時だった。
「そういえば……」
ルシアがふと思い出したように尋ねる。
「パールさんは、どうしてそこまでレオナールを調べていたんですか?」
その問いに、パールの表情が少し変わった。
迷うように視線を落とす。
そして、意を決したように口を開いた。
「……実は」
「あなた方が調べていたエーテルについてなのですが」
三人の視線が集まる。
「最初に発見したのは、私の父なんです」
一瞬。
時間が止まったようだった。
「……マジかよ!?」
シアンが目を見開く。
「はい。大マジです」
笑いながらパールは続ける。
「でも、どうしても安定化が上手くいかないようで……。そんな時、父はよく言っていました」
『レオナールなら、きっと完成させられる』
『あいつの研究なら、エーテルを安定させられる』
その言葉を聞いた瞬間。
三人の脳裏に、あの手紙の一文が蘇る。
——私の友人たちが、その在処を示すピースを持っている。
シアンが勢いよく立ち上がった。
「パールさん!」
その声にパールが驚く。
「あんたの親父さん……今どこにいる!?」
「えっ?」
「頼む、教えてくれ!」
パールは戸惑いながらも答える。
「父は……今も研究を続けています」
そして。
「ククルカン渓谷にある、エーテル研究施設で」
その名前を聞いた瞬間、シアンは確信した。
「ククルカン……」
国の北方に存在する巨大な研究区域。
そこに、レオナールへ繋がる鍵がある。
「決まりだな」
シアンは拳を握る。
「カイ、ルシア。帰るぞ! ばあちゃんに早速報告だ」
「うん!」
「はい!」
二人も急いで荷物をまとめる。
扉へ向かったところで、シアンは振り返った。
「パールさん」
「今日は本当に助かった」
太陽のような笑顔を向ける。
「ありがとう」
突然の言葉に、パールは少し目を丸くした。
「いえ……」
そして小さく微笑む。
「お役に立てたなら、よかったです」
三人が去った後。
静まり返った図書館に、再び時計の音だけが響き始める。
パールは閉じた扉を見つめたまま、しばらく動かなかった。
父が語っていた天才。
消された研究。
そして、今日現れた三人。
何か大きな歯車が、再び動き始めている。
そんな予感だけが、胸の奥に静かに残っていた。




