57.狂気の方程式
アークライン帝国軍首都基地、その中枢に位置する作戦会議室の前。
通路の一面に張り巡らされた無数の配管の奥では、絶え間なく蒸気が送り込まれ、低く唸るような振動が床を通して伝わってくる。
囲む空気は重く、誰一人として口を開こうとはしなかった。
その沈黙を破ったのは、ハーランだった。
「口だけは相変わらずだな」
低く吐き捨てるような声が響く。
「まだ蒸気の心臓の件で何一つ動かない貴様が、随分と大したことを言えたものだな」
その視線の先では、一人の女が静かに踵を返していた。
規則正しいヒールの音が鉄床へ乾いた音を刻む。
長い赤髪を一つに束ね、軍服を隙なく着こなした女。
マルティナ・グレーヴ少将。
かつてはハーラン直属の部下だった女は、今では彼より上位の階級へと駆け上がり、その瞳には昔以上の鋭さが宿っていた。
「ふっ……」
小さく笑う。
「私が何もせず今日まで過ごしてきたと思うのか?」
ゆっくりと振り返る。
「昔からそうだが……。大佐、貴方は少々視野が狭すぎるな」
その余裕ある態度に、ハーランは眉ひとつ動かさない。
マルティナは構わず歩み寄ると、机へ指先を滑らせながら静かに口を開いた。
「キース様から蒸気の心臓の製造過程を聞いた時、私はひとつの違和感を覚えた」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
「死者の肉体を装置へかけ、極限まで圧縮する。そして最後に残るものが、蒸気の心臓」
そこまで語ると、彼女は意味ありげに微笑んだ。
「それがどうした」
ハーランが短く返す。
「帝国中の研究者たちが今もっとも力を入れているものが何か、覚えているか?」
答えを待つことなく続ける。
「エーテルだ」
その一言に、ラルゴがわずかに目を細めた。
「白電鉱石へ超高圧縮を施し、純粋なエネルギーだけを抽出する技術」
マルティナは指先で机を軽く叩く。
「材料は違う。でも工程だけを見るなら、あまりにも似すぎているとは思わないか?」
誰も答えない。
その沈黙こそが答えだった。
マルティナは満足そうに口角を上げる。
「つまり——。蒸気の心臓とエーテル、このふたつには何か共通点がある」
一歩前へ出る。
「そして……見つからないなら、自分たちで作ればいい。どういう事か分かるか、大佐」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
スピアーが思わず息を呑み、ラルゴも無言のまま眉を寄せる。
ハーランは一歩前へと踏み出した。
「……正気か!」
壁に拳を叩きつける。
鈍い金属音が部屋中へ響き渡った。
「蒸気の心臓を人の手で作り出そうというのか! 貴様、気でも狂ったか!」
だが、マルティナはまるで動じない。
「何とでも言え」
冷たく笑う。
「忘れるな。我々が相手にしているのはバルナス共和国、過去にこの国を攻め落とそうとしたあの国だ」
その瞳は氷のようだった。
「奴らに勝つには、それ以上の力が必要なのだ」
「そのために国民を犠牲にするつもりか!」
ハーランの怒声が蒸気の唸りさえ押し潰した。
「戦争になれば、どのみち人は死ぬ」
マルティナは淡々と言い放つ。
「だったら、その命が帝国を勝利へ導く礎になる方が合理的ではないか?」
そこには迷いも葛藤もない。
ただ、勝利だけを追い求める冷徹な思想だけがあった。
スピアーは青ざめた顔で小さく首を振る。
「いくらなんでも、正気じゃないわ……」
震える声が漏れる。
「そんなの……人間のやることじゃない」
「いいや。人間だから出来るのだ、今を生きる人間だからこそな」
マルティナは即座に言い返した。
「理想だけで国は守れない」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
帝都の蒸気塔からは夜空へ白煙が立ち昇り、その灯火が無数の煙突を照らしていた。
「二日後、私は自ら編成した特務部隊を率いてククルカン渓谷へ向かう」
静かな声だった。
「目的はエーテル研究施設」
誰も口を挟めない。
「そこには、蒸気の心臓を再現する鍵が眠っているはず」
その声には、もはや確信しかなかった。
「私はその方法を、必ず見つけ出す」
そして。
「新たな蒸気の心臓を、この手で完成させる」
長い外套を翻し、マルティナは迷いなく部屋を後にする。
重い鉄扉が閉まる音だけが、しばらく室内へ響いていた。
「……狂っている」
ハーランは低く呟く。
次の瞬間、床を踏みつけた
鈍い衝撃音が通路を震わせる。
「クソッ……!」
怒りを押し殺した声が漏れた。
「ハーランちゃん……」
スピアーが不安そうに見上げる。
「このままじゃ、本当に取り返しがつかなくなるわ」
ラルゴも静かに口を開いた。
「どうする、ハーラン」
短い問いだった。
ハーランはゆっくりと目を閉じる。
怒りを押し込み、深く息を吐いたあと、真っ直ぐ二人を見据えた。
「奴らより先に、見つけなければ」
その一言には揺るぎがなかった。
「奴らが蒸気の心臓の製造法へ辿り着く前に、我々が本物を手に入れる」
その瞳には、帝国軍人としてではなく、一人の人間としての信念が宿っていた。
「勝利のためとはいえ、人の命を材料にするなど断じて認めん」
静かな声だった。
だが、その決意は誰よりも強い。
「帝国を守るとは、狂気に堕ちることではない」
窓の外では、夜の帝都を鉄の兵士たちが整然と行進し、蒸気塔の警笛が低く鳴り響いていた。
ハーランは外套の裾を翻すと、静かに拳を握る。
「やるぞ」
その声は低く、しかし確かな重みを持っていた。
「狂気が世界を書き換える、その前に!」
蒸気の流れる夜風が窓の隙間から吹き込み、その誓いだけを静かに帝都の夜へ運んでいった。




