56.帝国の影、静かなる策謀
アルディス地下での騒動から、数日が過ぎていた。
アークライン帝国首都。
蒸気を吐き続ける巨大な軍事工廠の奥深くでは、無数の配管が天井を這い、重厚な鋼鉄の回廊を白い蒸気がゆっくりと流れている。
規則正しく響く軍靴の音だけが静まり返った廊下を渡り、その先にある執務室からは、低く押し殺した怒声が漏れていた。
「まったく……我が娘は! この非常時だというのに一人旅とは……!」
声の主は、アークライン帝国軍元帥――ガレス・ハートランド。
帝国軍の頂点に立つ男は、年齢を感じさせる白髪を几帳面に撫でつけ、皺ひとつない軍服をまとっていた。
その姿には長年この帝国軍のトップに君臨し続けていた威厳が漂っている。
だがこの瞬間、深く刻まれた皺の奥に宿るのは軍人としての厳しさだけではない。
父として娘を案じる、一人の老人の顔であった。
「元帥殿」
重い扉が静かに開く。
姿を現したのは海軍所属のハーラン大佐だった。
潮風に晒された軍服には、つい先日まで海上任務に就いていた名残が残っている。
「ハーランか。海でのバルナスの件、ご苦労だった」
「ありがたきお言葉です」
敬礼を返す姿は、非の打ちどころがない。
「それと、蒸気の心臓の件もな」
ガレスは机上の書類を閉じながら言った。
「この報告によると、アルディスには手掛かりはなかったそうだな」
「はい。残念ながら」
ハーランは一切表情を変えず答える。
「ですが、引き続き各地で捜索を続けます」
「頼んだぞ」
「必ずや」
ガレスは小さく頷き、椅子へ深く腰掛け直した。
「それにしても……ルシアめ」
思わず苦笑が漏れる。
「グラナードへ勝手に向かい、そのままアルディスを見て回りたいなどと言い出すとは。しかも私に一言も知らせずにな」
その言葉に、ハーランは穏やかな笑みを浮かべた。
もちろん、それは事実ではない。
ルシアが消息を絶った本当の理由を伏せるため、彼自身が都合よく仕立て上げた偽りの報告だった。
「元帥殿、ルシア様も十九歳です」
静かな口調で続ける。
「若いうちは見聞を広めたいと思う年頃なのでしょう。しかし、まさかアルディスへ向かわれるとは、私も予想しておりませんでしたが」
嘘を嘘と感じさせない、滑らかな語り口だった。
「ふむ……」
ガレスは大きく息をつく。
「妻を亡くしてからは、男手ひとつで育ててきたからな」
壁際へ視線を向ける。
そこには幼いルシアが亡き母と並んで笑う、一枚の写真が飾られていた。
「少々、甘やかしすぎたのかもしれん」
父親らしい苦笑が浮かぶ。
「何か連絡が入り次第、すぐ私へ知らせてくれ」
「承知しました」
「私は和平交渉の準備へ戻る」
立ち上がったガレスは軍帽を手に取り、そのまま部屋を後にした。
重厚な扉が閉じると、静寂だけが残った。
ハーランは、その背中を見送る。
そして誰にも聞こえないほど小さく鼻で笑った。
「……この状況で戦わずして済ませようとは」
吐き捨てるように呟く。
「平和ボケもここまで来ると救いがないな」
その瞳に宿るのは軽蔑だった。
「娘の方が、まだ見込みがある」
ふっと息を吐き、ハーランも執務室を後にした。
しばらく施設内の廊下を歩き、軍艦グラナードへ向かうその道中。
「ルシア様の件、ずいぶん上手く騙せているようね」
妖艶な声が背後から響く。
振り返ると、曲がり角から二つの影が姿を現した。
漆黒の蒸気兵装を備えた巨漢――ラルゴ。
その隣には、全身へ包帯を巻いたスピアーが壁にもたれ掛かっている。
「ラルゴ。それにスピアー」
ハーランが視線を向ける。
「目が覚めたのか」
「ええ」
弱々しく笑う。
「でも、この身体じゃしばらく戦えそうにないわ」
包帯越しに腹部へ触れる。
「スモーク・ウォーカー……あれは化け物よ」
悔しさを押し殺した声だった。
ハーランは静かに頷く。
「ラルゴから聞いている」
そして穏やかな口調で続けた。
「安心しろ。蒸気の心臓は今も軍派閥の者たちが追っている」
「お前は治療に専念しろ」
スピアーはゆっくり目を閉じた。
「……期待してるわ」
その横でラルゴが腕を組む。
鋼鉄が軋むような低い声が漏れた。
「スモーク・ウォーカーは……必ず俺が討つ」
その時——。
重苦しい空気を裂くように、乾いたヒールの音が響いた。
「本当に情けない」
軍服をまとった一人の女将校が姿を現す。
長い赤髪を揺らしながら歩くその姿には、鋭利な刃物のような美しさがあった。
「男でも女でもない半端者が、その上敵にまで負けるなんて。救いようがないわね」
皮肉を含んだ笑みを浮かべる。
「結果も残せないなんて。お前は何ができるのだ?」
女将校は、刺すような視線でスピアーを睨みつけた。
「マルティナか」
ハーランが目を細める。
「“マルティナ”ではない」
女は歩みを止める。
「少将と呼べ」
口元だけが笑う。
「今は私の方が上官だ。ハーラン大佐」
「そうだったな」
肩をすくめる。
「地位だけは」
「相変わらず口だけは達者だな」
二人の間へ、ぴんと張り詰めた空気が流れる。
ラルゴは腕を組んだまま沈黙し、スピアーだけが面白そうにその様子を眺めていた。
白い蒸気が天井へゆっくりと昇っていく。
その向こうで、帝国という巨大な国家の思惑が静かに絡み合い始めていた。
そして――
《蒸気の心臓》を巡る、もうひとつの戦いもまた、誰にも知られることなく静かに幕を開けようとしていた。




