55.蒸気灯の下で、帰る場所
夕陽は街を覆う煙突の向こうへゆっくりと沈み、橙色だった空は少しずつ群青へと色を変え始めていた。
石畳の上を白い蒸気が薄く流れ、頭上を巡る配管の継ぎ目からは、時折小さな蒸気が噴き出す。
遠くで汽笛がひとつ鳴いた。
昼間の賑わいは少しずつ落ち着き始め、それでも酒場から漏れる笑い声や路面電車のベルは、夜を迎えようとするアルディスに穏やかな活気を残している。
そんな街を歩き抜けた二人は、見慣れた木の扉の前でようやく足を止めた。
《スチーム・フィールド》
古びた看板を見上げると、不思議と肩の力が抜ける。
シアンは扉を押し開けた。
カラン――。
小さなベルが優しく鳴る。
「ただいまー」
「ただ今戻りました」
店の中は朝よりも静かだった。
ランプの橙色の灯りが木造の店内を柔らかく照らし、湯気を立てる薬缶からはほのかな茶葉の香りが漂っている。
カウンターではグレンダが分厚い古書を広げ、その横へ欠片を並べて何やら見比べていた。
古い紙の匂いと油の香りが混ざり合うその光景は、この店らしい落ち着きを感じさせる。
「おかえり」
顔を上げたグレンダが目を細める。
「随分と時間がかかったじゃないか」
その視線はすぐにルシアへ向いた。
「おや……」
口元へ笑みが浮かぶ。
「ずいぶんとこの街らしい服装になって帰ってきたね」
ルシアは少し照れくさそうに裾へ視線を落とした。
「あのまま帝国の服で帰ってきてたら、シアンを説教するとこだったよ」
「ほらな?」
シアンが得意げに笑う。
「俺の勘、当たってただろ?」
「そうみたいですね」
ルシアは小さく笑って頷いた。
「皆さんのおかげです。あんな素敵なお店にも行けましたし……こんな服を着る機会なんて、きっとありませんでした」
その言葉に、グレンダは静かに頷き、小さく笑った。
「お前さんは昨日は死地にいたんだ。このくらいのご褒美あったっていいだろう」
そう言うと、再び手元の古書に視線を戻した。
しばらくしてシアンが店内を見回す。
「そういや、カイは?」
「あの子なら寝てるよ」
グレンダは苦笑した。
「家へ帰った途端、糸が切れたみたいに眠っちまった。なんだかんだ昨日からずっと気を張ってたんだろうね」
その様子が目に浮かび、シアンも思わず笑う。
「まあ、無理もねぇか」
頭の後ろをかきながら頷く。
「あいつ、背伸びばっかしてるけどまだ十二歳だもんな」
「子どもはちゃんと寝るのが仕事さ」
グレンダはそう言って本を閉じると、今度はシアンの左腕へ目を向けた。
「それで?」
「新しい相棒はどうなんだい」
待ってましたと言わんばかりに、シアンは左腕を掲げる。
灰色の装甲がランプの灯りを受け、静かに鈍く輝いた。
「最高だよ」
拳を握る。
滑らかに関節が動き、小さく蒸気が抜ける音が響く。
「悪いけど、今までで一番しっくりくる」
何度か指を曲げながら笑う。
「最初から俺の腕だったみたいだ」
その腕を見つめたグレンダの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……それ」
小さく息を呑む。
「リベラルナックルじゃないか」
驚きとも懐かしさともつかない感情が、その瞳をかすめた。
「こんなところで、また会うことになるとはねぇ……」
「ん?」
シアンが首を傾げる。
「ばあちゃん知ってるのか?」
「いや」
グレンダはすぐに笑って首を振った。
「昔を思い出しただけさ」
それ以上は語らない。
シアンも深くは聞かなかった。
グレンダは話を変えるようにルシアへ向き直る。
「ルシア」
「はい」
「二階の空き部屋を片付けておいたよ。今日はそこでゆっくり休みな」
ルシアは目を丸くした。
「私のために……?」
「遠慮なんかするもんじゃない」
グレンダは笑う。
「ここへ来た以上、お前さんも今日からこの家の客……いや、家族なんだからね」
その一言に、ルシアの肩からふっと力が抜けた。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる姿は、どこか安心した子どものようにも見えた。
シアンはそんな様子を眺めながら、ふと思い出したように口を開く。
「そうだ」
「あの欠片とレオナールの手紙、何かわかった?」
グレンダは机の上へ視線を落とした。
欠片は相変わらず鈍い光を返すだけだった。
「依頼人へ通信は送ったよ」
静かに答える。
「でも返事はまだ来ない」
欠片を手に取る。
「こっちも調べてみたけど、材質も用途もさっぱりだ」
困ったように肩をすくめた。
「やっぱりお前さんが言うように、これは蒸気の心臓の欠片なのかもしれないね」
シアンは苦笑する。
「まあ、焦っても仕方ねぇな」
「その通りさ」
グレンダは本を閉じた。
「昨日から今日まで、お前さんたちは働き詰めだったろう?」
優しい声だった。
「今日は頭も身体も休ませな」
「そうだな、俺も今日は家へ帰るよ」
シアンは大きく伸びをする。
「さすがに限界だ」
「そうしな」
グレンダは頷いた。
「その代わり、明日からはしっかり働いてもらうからね」
「げっ」
「蒸気の心臓の調査だけで店が回ると思ったら大間違いだよ」
「持ち込まれた機械の整備依頼やら、出張依頼が山積みだからねぇ」
「現実を思い出しちまった……」
シアンは肩を落とした。
そのやり取りを聞きながら笑おうとしたルシアだったが、不意に身体がふらりと揺れる。
近くの椅子へ腰を下ろした、そのまま。
瞼がゆっくり閉じていった。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
頬へ落ちた金色の髪が、呼吸に合わせて小さく揺れていた。
グレンダは静かに立ち上がる。
「この子も」
優しく微笑んだ。
「ずっと気を張ってたんだろうねぇ」
シアンは眠るルシアを見つめる。
朝まで張りつめていた横顔は、今は年相応の少女の寝顔になっていた。
ようやく安心して眠れる場所を見つけたようだった。
「後はアタシに任せな」
グレンダが静かに言う。
「お前さんも帰って休み」
「……ありがと、ばあちゃん」
短く礼を言い、シアンは扉へ手を掛けた。
カラン、とベルが鳴る。
外はすっかり夜だった。
蒸気灯が石畳を淡く照らし、白い蒸気がゆっくりと街を流れている。
扉を閉める前、シアンはもう一度だけ振り返った。
ランプの灯りの下で、グレンダがそっとルシアへ毛布を掛けてやっている。
その光景は、家族という言葉よりもずっと温かく見えた。
自然と笑みがこぼれる。
「……ほんと」
小さく呟く。
「ばあちゃんには敵わねぇや」
静かに扉を閉める。
ベルの音が夜へ溶けていった。
遠くで汽笛が鳴る。
蒸気都市アルディスの夜は、帰る場所を知る者だけが持つ穏やかさで、静かに更けていった。




