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蒸気の心臓─機工幻想譚─  作者: らふぃお
第2章、夢と決意を乗せて
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55/113

55.蒸気灯の下で、帰る場所

夕陽は街を覆う煙突の向こうへゆっくりと沈み、橙色だった空は少しずつ群青へと色を変え始めていた。


石畳の上を白い蒸気が薄く流れ、頭上を巡る配管の継ぎ目からは、時折小さな蒸気が噴き出す。


遠くで汽笛がひとつ鳴いた。


昼間の賑わいは少しずつ落ち着き始め、それでも酒場から漏れる笑い声や路面電車のベルは、夜を迎えようとするアルディスに穏やかな活気を残している。


そんな街を歩き抜けた二人は、見慣れた木の扉の前でようやく足を止めた。


《スチーム・フィールド》


古びた看板を見上げると、不思議と肩の力が抜ける。


シアンは扉を押し開けた。


カラン――。


小さなベルが優しく鳴る。


「ただいまー」


「ただ今戻りました」


店の中は朝よりも静かだった。


ランプの橙色の灯りが木造の店内を柔らかく照らし、湯気を立てる薬缶からはほのかな茶葉の香りが漂っている。

 

カウンターではグレンダが分厚い古書を広げ、その横へ欠片を並べて何やら見比べていた。


古い紙の匂いと油の香りが混ざり合うその光景は、この店らしい落ち着きを感じさせる。


「おかえり」


顔を上げたグレンダが目を細める。


「随分と時間がかかったじゃないか」


その視線はすぐにルシアへ向いた。


「おや……」


口元へ笑みが浮かぶ。


「ずいぶんとこの街らしい服装になって帰ってきたね」


ルシアは少し照れくさそうに裾へ視線を落とした。


「あのまま帝国の服で帰ってきてたら、シアンを説教するとこだったよ」


「ほらな?」


シアンが得意げに笑う。


「俺の勘、当たってただろ?」


「そうみたいですね」


ルシアは小さく笑って頷いた。


「皆さんのおかげです。あんな素敵なお店にも行けましたし……こんな服を着る機会なんて、きっとありませんでした」


その言葉に、グレンダは静かに頷き、小さく笑った。


「お前さんは昨日は死地にいたんだ。このくらいのご褒美あったっていいだろう」


そう言うと、再び手元の古書に視線を戻した。

 

しばらくしてシアンが店内を見回す。


「そういや、カイは?」


「あの子なら寝てるよ」


グレンダは苦笑した。


「家へ帰った途端、糸が切れたみたいに眠っちまった。なんだかんだ昨日からずっと気を張ってたんだろうね」


その様子が目に浮かび、シアンも思わず笑う。


「まあ、無理もねぇか」


頭の後ろをかきながら頷く。


「あいつ、背伸びばっかしてるけどまだ十二歳だもんな」


「子どもはちゃんと寝るのが仕事さ」


グレンダはそう言って本を閉じると、今度はシアンの左腕へ目を向けた。


「それで?」


「新しい相棒はどうなんだい」


待ってましたと言わんばかりに、シアンは左腕を掲げる。


灰色の装甲がランプの灯りを受け、静かに鈍く輝いた。


「最高だよ」


拳を握る。


滑らかに関節が動き、小さく蒸気が抜ける音が響く。


「悪いけど、今までで一番しっくりくる」


何度か指を曲げながら笑う。


「最初から俺の腕だったみたいだ」


その腕を見つめたグレンダの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……それ」


小さく息を呑む。


「リベラルナックルじゃないか」


驚きとも懐かしさともつかない感情が、その瞳をかすめた。


「こんなところで、また会うことになるとはねぇ……」


「ん?」


シアンが首を傾げる。


「ばあちゃん知ってるのか?」


「いや」


グレンダはすぐに笑って首を振った。


「昔を思い出しただけさ」


それ以上は語らない。


シアンも深くは聞かなかった。


グレンダは話を変えるようにルシアへ向き直る。


「ルシア」


「はい」


「二階の空き部屋を片付けておいたよ。今日はそこでゆっくり休みな」


ルシアは目を丸くした。


「私のために……?」


「遠慮なんかするもんじゃない」


グレンダは笑う。


「ここへ来た以上、お前さんも今日からこの家の客……いや、家族なんだからね」


その一言に、ルシアの肩からふっと力が抜けた。


「……ありがとうございます」


深く頭を下げる姿は、どこか安心した子どものようにも見えた。


シアンはそんな様子を眺めながら、ふと思い出したように口を開く。


「そうだ」


「あの欠片とレオナールの手紙、何かわかった?」


グレンダは机の上へ視線を落とした。


欠片は相変わらず鈍い光を返すだけだった。


「依頼人へ通信は送ったよ」


静かに答える。


「でも返事はまだ来ない」


欠片を手に取る。


「こっちも調べてみたけど、材質も用途もさっぱりだ」


困ったように肩をすくめた。


「やっぱりお前さんが言うように、これは蒸気の心臓の欠片なのかもしれないね」


シアンは苦笑する。


「まあ、焦っても仕方ねぇな」


「その通りさ」


グレンダは本を閉じた。


「昨日から今日まで、お前さんたちは働き詰めだったろう?」


優しい声だった。


「今日は頭も身体も休ませな」


「そうだな、俺も今日は家へ帰るよ」


シアンは大きく伸びをする。


「さすがに限界だ」


「そうしな」


グレンダは頷いた。


「その代わり、明日からはしっかり働いてもらうからね」


「げっ」


「蒸気の心臓の調査だけで店が回ると思ったら大間違いだよ」


「持ち込まれた機械の整備依頼やら、出張依頼が山積みだからねぇ」


「現実を思い出しちまった……」


シアンは肩を落とした。


そのやり取りを聞きながら笑おうとしたルシアだったが、不意に身体がふらりと揺れる。


近くの椅子へ腰を下ろした、そのまま。


瞼がゆっくり閉じていった。


規則正しい寝息が聞こえ始める。


頬へ落ちた金色の髪が、呼吸に合わせて小さく揺れていた。


グレンダは静かに立ち上がる。


「この子も」


優しく微笑んだ。


「ずっと気を張ってたんだろうねぇ」


シアンは眠るルシアを見つめる。


朝まで張りつめていた横顔は、今は年相応の少女の寝顔になっていた。

 

ようやく安心して眠れる場所を見つけたようだった。


「後はアタシに任せな」


グレンダが静かに言う。


「お前さんも帰って休み」


「……ありがと、ばあちゃん」


短く礼を言い、シアンは扉へ手を掛けた。


カラン、とベルが鳴る。


外はすっかり夜だった。


蒸気灯が石畳を淡く照らし、白い蒸気がゆっくりと街を流れている。


扉を閉める前、シアンはもう一度だけ振り返った。

ランプの灯りの下で、グレンダがそっとルシアへ毛布を掛けてやっている。


その光景は、家族という言葉よりもずっと温かく見えた。


自然と笑みがこぼれる。


「……ほんと」


小さく呟く。


「ばあちゃんには敵わねぇや」


静かに扉を閉める。


ベルの音が夜へ溶けていった。


遠くで汽笛が鳴る。


蒸気都市アルディスの夜は、帰る場所を知る者だけが持つ穏やかさで、静かに更けていった。

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