54.金の髪に映える服
リオンズ・ピットを出る頃には、アルディスの空はゆっくりと夕暮れ色へ染まり始めていた。
西へ傾いた陽が煉瓦造りの建物を赤く照らし、屋根の上では風見鶏が風に合わせてくるくると向きを変えている。
街中を縦横に走る蒸気管からは白い蒸気が絶え間なく立ち昇り、その向こうを路面電車が軽やかなベルを鳴らしながら横切っていった。
露店からは威勢のいい呼び込みが響き、仕事帰りの人々は笑いながら家路を急ぐ。
昼間とは少し違う、どこか穏やかな賑わいが夕暮れの街を優しく包み込んでいた。
そんな景色の中を歩きながら、シアンは何度も左腕を眺めていた。
拳を握る。
ゆっくり開く。
指先を一本ずつ確かめるように動かすたび、内部で小さく歯車が噛み合い、蒸気が静かに巡る感触が返ってくる。
その自然な動きに、思わず頬が緩んだ。
灰色の装甲は夕陽を浴びて鈍く光り、手首の接合部からは細い蒸気が糸のように立ち上っている。
長い眠りから目を覚ましたばかりとは思えないほど、その拳はもうシアンの身体の一部になっていた。
「ん〜……いいなぁ」
誰に聞かせるでもなく漏れた声だった。
嬉しさを隠しきれない横顔を見て、ルシアが小さく笑う。
「そんなに気に入ったんですね」
「そりゃあな」
シアンは照れもせずに笑い返した。
「新しい相棒だからさ」
その一言に、ルシアも自然と微笑む。
「とても似合っていますよ」
「……そうか?」
急に照れくさくなったのか、シアンは新しい左手で頭をかこうとして「あ」と小さく声を漏らした。
まだ力加減が掴めていない。
慌てて右手へ持ち替える姿が少しおかしくて、ルシアは思わず吹き出してしまう。
「ありがとな」
シアンもつられて笑った。
「今日は付き合ってくれて」
「こちらこそです」
ルシアは首を横へ振る。
「私、とても楽しかったです」
その言葉を聞いたシアンは、どこか安心したように笑みを浮かべた。
二人は並んだまま石畳を歩いていく。
子どもたちが笑いながら駆け抜け、パン屋から漂う焼き立ての香りが風に乗る。
蒸気を吐く路面電車がゆっくりと横を通り過ぎるたび、窓から漏れる明かりが石畳へ長く伸びていた。
そんな何気ない街並みを眺めながら歩いていたシアンは、不意に足を止める。
「……ん?」
ルシアへ視線を向けた。
帝国の赤い上着。
灰色のローブ。
白いフリルのスカート。
上品な服装ではある。
けれど、この鉄と蒸気の街では、その姿だけが少し浮いて見えた。
「ルシア」
「はい?」
「ちょっと寄り道しよう」
「寄り道……ですか?」
「いいから」
そう言うなり、シアンはルシアの手を取った。
「えっ、ちょ、シアンさん!」
驚く暇もなく引っ張られる。
石畳を蹴り、蒸気の立ち昇る路地を抜け、人混みを縫うように走っていく。
突然のことに戸惑いながらも、ルシアはその手を振り払おうとはしなかった。
むしろ少しだけ嬉しそうに、その背中を見つめながら走る。
やがて二人は一軒の店の前で足を止めた。
木製の看板には、可愛らしい文字で店名が描かれている。
《フローレンス・クロス》
ショーウインドウには季節ごとの衣装が美しく並び、窓から漏れる柔らかな灯りが夕暮れの街へ温かくこぼれていた。
「ここ」
シアンが親指で店を示す。
「服、買おうぜ」
「……え?」
ルシアはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「その格好じゃ、この街じゃちょっと目立つからさ」
少し照れくさそうに笑う。
「それに、ばあちゃんから預かった金もまだ残ってる」
「で、でも……そんな高いもの」
慌てて両手を振る。
「悪いですよ」
「気にすんなって」
シアンは肩をすくめた。
「ばあちゃんがお前を連れて歩けって言ったのは、たぶんこういうことも込みなんだと思う」
そして真顔で付け加える。
「その格好のまま帰ったら、俺が怒られる」
「え?」
「絶っ対……怒られる!」
妙に自信満々な言い方に、ルシアは思わず笑ってしまった。
「……分かりました」
観念したように小さく頷く。
「ありがとうございます」
扉を開くと、小さな鈴が澄んだ音を鳴らした。
店内へ一歩足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。
新しい布の香り。
ほのかに香る花の匂い。
柔らかな照明に照らされた色とりどりの服が静かに並び、穏やかな音楽が店内を満たしていた。
「いらっしゃいませ」
店員の女性が優しく微笑む。
「今日はどのようなお洋服をお探しでしょうか?」
シアンは迷わずルシアを見た。
「この子に似合う服をお願いします」
店員はルシアを一目見るなり、小さく息を呑んだ。
「まあ……」
自然と笑みがこぼれる。
「本当に綺麗な金色の髪ですね」
その髪へ優しく視線を向ける。
「この髪色なら、きっと素敵なお洋服が映えますよ」
ルシアは照れくさそうにはにかんだ。
「こちらへどうぞ」
店員に案内され、試着室へ入っていく。
シアンは近くの椅子へ腰を下ろした。
何となく店内を眺めながら待っていると、やがて試着室のカーテンが静かに開く。
「……お待たせしました」
その声に顔を上げた瞬間だった。
シアンは息を呑む。
濃い茶色のジャケット。
黒いコルセットベルト。
白いレースのブラウス。
深い紺色のスカート。
落ち着いた色合いでまとめられた装いは、蒸気の街に自然と溶け込みながらも、夕陽を受けた金色の髪だけをひときわ美しく際立たせていた。
ルシアは恥ずかしそうにスカートの裾を摘み、小さく首を傾げる。
「……どうでしょうか」
不安そうにシアンを見る。
「似合いませんか?」
「…………」
言葉が出なかった。
ただ、その姿から目が離せない。
夕陽が窓から差し込み、金色の髪を柔らかく照らしている。
その光景は、蒸気の街へ初めて咲いた一輪の花のように美しかった。
「お客様?」
店員が楽しそうに笑う。
「いかがでしょう?」
「これ」
シアンは迷わず答えた。
「買います!」
「えっ!?」
ルシアが慌てて振り返る。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たない」
「でも!」
「似合ってるからな!」
その一言だけで十分だった。
ルシアはそれ以上何も言えず、頬を赤く染めたまま俯く。
店を出る頃には、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
紙袋を大切そうに抱えたルシアの隣を歩きながら、シアンは照れくさそうに笑う。
「……やっぱり」
少し間を置いて呟く。
「すげぇ似合ってるな!」
ルシアは胸元で紙袋を抱きしめ、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔を見たシアンも、自然と笑みを浮かべる。
二人は再び石畳を歩き始めた。
街灯の明かりに照らされた二人の影は、夕暮れのアルディスの中を寄り添うようにゆっくりと伸びていった。




