5.港への道
スチーム・フィールドを出ると、朝の陽射しが真鍮の街を黄金色に染めていた。
石畳の隙間からは白い蒸気が細く噴き出し、行き交う人々の足元をゆらゆらと揺らしている。
通りの脇では蒸気配管を点検する職人がレンチを鳴らし、歯車仕掛けの路面電車が金属を軋ませながらゆっくりと交差点を曲がっていく。
建物という建物には太い配管が巡らされ、屋根の煙突からは今日も絶え間なく白煙が空へ昇っていた。
頭上を見上げれば、小型飛行船が荷物を吊り下げたまま港へ向かってゆっくりと飛んでいく。
街そのものが巨大な機械となり、静かに息をしているようだった。
その鼓動の中を、シアンは工具箱を背負い、軽い足取りで駆け抜けていく。
目的地は港にある〈トレモン商会〉。
依頼は、蒸留機の修理依頼。
「今日こそは終わらせねえとな」
誰に言うでもなく呟くと、口元に笑みを浮かべたまま角を曲がる。
港への近道は、歓楽街として知られる〈ランプ通り〉を抜けることだった。
夜になれば酒場から笑い声が溢れ、酔客たちが肩を組んで歩く賑やかな通り。
しかし朝のランプ通りは、まるで別の街のように穏やかだった。
店先では樽を洗う店員が水を流し、掃除人が昨夜割れた酒瓶を手際よく片づけている。
酒場の主人は焼きたてのパンを頬張りながら開店の準備に追われ、軒先には洗いたてのグラスが朝日を受けてきらりと光っていた。
夜を終えた街が、静かに朝へ姿を変えていく。
そんな空気が、この通りには流れていた。
「おーい、シアン!」
威勢のいい声が飛ぶ。
屋台の前では魚を焼く煙を上げながら、女主人が豪快に手を振っていた。
「昨日のツケ、忘れてないだろうね!」
「あっ……!」
シアンはぴたりと足を止める。
「いや、その……覚えてる! ちゃんと覚えてる!」
「なら払いな!」
「財布が覚えてなくてさ!」
「そんな財布あるかい!」
豪快な笑い声が通りに広がった。
「仕事終わったらまた寄りな! お前が来ると繁盛するからねえ!」
「善処しまーす!」
返事だけは威勢がいい。
「ツケの件、逃げるんじゃないよー!」
背中へ飛んできた声に、シアンは苦笑しながら頭を掻いた。
「やべぇな……。ばあちゃんもそうだけど、この街の女の人はみんな怖えや」
そうぼやきながらも、どこか嬉しそうだった。
通りを進めば、また別の誰かが声を掛けてくる。
「シアン! この前はボイラー助かった!」
「今度うちの義肢も見てくれ!」
「お兄ちゃーん!」
子どもたちまで駆け寄ってきて、大きく手を振る。
シアンも足を止めることなく、片手を上げて笑い返した。
「今度な!」
「あとで行く!」
「宿題ちゃんとやれよー!」
その笑顔は自然だった。
街中の誰もが彼を知り、彼もまた街の誰もを知っている。
そんな関係が、ごく当たり前のように息づいていた。
やがて酒場が立ち並ぶ一角へ差しかかる。
開け放たれた窓からは香辛料と蒸留酒の香りが風に乗って流れ、朝の涼しい空気と混ざり合って鼻をくすぐった。
「あら、シアンくーん」
艶やかな声が聞こえた。
軒先では着飾った女性たちが朝の風に当たりながら楽しげに談笑している。
「今日も相変わらずいい男ね」
「今度うちへ遊びに来ない?」
「新入りの可愛い子、紹介してあげるわ」
シアンは思わず足を緩める。
「それは魅力的なんだけど……今日は仕事中! ばあちゃんに怒られちまうんで!」
「あらあら」
女性たちは顔を見合わせて笑う。
「ほんと、グレンダさんには頭が上がらないのね」
「今度絶対行くから、待ってて下さい!」
そう言って手を振りながら駆け抜ける。
「はぁ……休みだったらなぁ……」
思わず漏れた本音は、朝風にさらわれて消えていった。
そのまま通りの最奥へ差しかかった時だった。
チリン――。
小さくベルが鳴る。
歓楽街最大の娼館〈ルビーの小径〉。
重厚な扉が静かに開き、その奥から一人の女が姿を現した。
朝日に照らされた紫のシルクドレスが風に揺れる。
腰まで届く艶やかな黒髪、白く長い脚。
男たちを魅了してやまない美貌は、この朝の街でさえ一瞬だけ空気を変えた。
「……シアン」
その声に、シアンは自然と足を止める。
「フィーナか」
「上の窓から見えたの」
扇子で口元を隠しながら、彼女は妖しく微笑んだ。
「だから、つい出てきちゃった」
ゆっくりと距離を詰める。
そして、シアンだけに聞こえる声で囁いた。
「――今夜。“赤”が来るそうね」
その瞬間、シアンの笑みが消えた。
「……もう知ってるのかよ」
「裏の人間を甘く見ないことね」
艶やかな笑みは消え失せ、その瞳には鋭い光が宿る。
そこにいるのは街一番の娼婦ではない。
裏社会の動きを誰よりも早く掴む情報屋、フィーナ・アーデンだった。
「気をつけなさい。二年前のこと、忘れたわけじゃないでしょう?」
シアンはゆっくりと目を伏せる。
「……忘れるわけないさ」
「なら、油断しないこと」
短い沈黙が二人の間に落ちた。
やがてフィーナは静かに、その名を口にする。
「――スモーク・ウォーカー」
その呼び名だけで、シアンの肩がわずかに強張った。
「おい。……お天道様が顔を出してる時に、その名前で呼ぶなよ」
「ふふ。そんな怖い顔しなくてもいいじゃない」
「わりぃ……もう行くわ。客が待ってるからな」
振り返ることなく片手を上げ、そのまま歩き出す。
フィーナは遠ざかる背中を見つめ、小さく息を吐いた。
「あの顔がまだできるなら……心配する必要はなかったかしら」
ランプ通りを抜ける頃には、シアンの笑顔は消えていた。
(……俺が一番、分かってる)
知らず知らずのうちに拳へ力が入る。
爪が掌へ食い込む感覚で我に返ると、苦笑しながら自分の頬を軽く叩いた。
「いかんいかん」
大きく息を吐く。
「朝っぱらから暗い顔してどうすんだ」
そう言って口角を上げる。
鏡はなくても、それがいつもの笑顔になっていることくらい分かっていた。
潮風が強くなる。
港はもう目の前だ。
巨大なクレーンが蒸気を噴き上げ、貨物船の汽笛が朝空へ低く響く。
その向こうでは、一隻の軍艦が静かに港へ近づいていた。
ドクン。
左腕の奥で、小さな鼓動が鳴る。
「……またか」
義肢を軽く叩いてみる。
返事はない。
「今日のお前は騒がしいな」
そう苦笑すると、シアンは再び港へ向かって走り出した。




