4.灰の海に立つ街・アルディス
一隻の軍艦が、海を割るように進んでいた。
鈍い黒色の船体が波を押し分け、その後ろに白い航跡を長く引いていく。
甲板では兵士たちが黙々と持ち場につき、艦の奥では蒸気機関が腹の底まで響くような低い唸りを鳴らしていた。
潮風に混じるのは、海の匂いだけではない。
石炭を燃やした煙の匂いが風に乗り、遠く離れた街の存在を知らせている。
「大佐、まもなくアルディスに到着です」
「ふむ、ご苦労。まさか、こんな近場へこの軍艦で来ることになるとはな」
操縦室の窓の外。
水平線の先には、鉄と銅と真鍮で組み上げられた街が、朝日に照らされ黄金色に輝いていた。
煙突から立ち上る幾筋もの白煙。
海沿いに並ぶ巨大な工場。
港へ出入りする貨物船。
街中を縫うように走る鉄路。
絶え間なく鳴る汽笛と、鉄を打つ槌の音。
そのすべてが、巨大な機械の鼓動のように規則正しく街を動かしている。
大佐は細く目を細めた。
「我が国、アークライン帝国の……通称“機械の心臓“。アルディス機工特区か」
その声には感嘆とも警戒ともつかない響きが混じる。
報告に来た若い兵士も窓の外へ目を向けた。
「四十年前は焼け野原だったなんて……今じゃ信じられませんね」
「西の要だからな。この街の多くの職人と技師が、必死にこの街を立て直した」
大佐は街から目を離さないまま静かに答えた。
「余程愛された街なのだろうな……だからこそ今、あれほど力強い存在感がある」
兵士は黙って耳を傾ける。
「さすがは我が国民だ」
大佐はしばらく街を眺めていた。
煙突から立つ白煙は、まるでこの街が生き続けている証のようだった。
「……俺が子どもの頃に見たアルディスは、海まで灰で染まっていた」
兵士は思わず息を呑んだ。
それ以上、大佐は語らない。
その一言だけで、この男が戦争を知る人間なのだと十分に伝わった。
港では荷揚げの掛け声が響き、工房では朝一番の炉に火が入る。
市場へ向かう荷車が石畳を走り、子どもたちは空を飛ぶ飛行船を指差して笑っていた。
街は今日も、人々の営みとともに目を覚ましている。
しかし、その青空には軍の飛行船が何隻も旋回していた。
黒い船体に刻まれた赤い紋章。
その巨大な影が街をゆっくりと横切るたび、人々の姿が一瞬だけ飲み込まれていく。
兵士が苦笑した。
「これじゃ復興したのか、戦争の準備をしてるのか分かりませんな」
「……両方だ」
大佐は静かに窓から目を離した。
「平和というものはな」
兵士が顔を上げる。
「戦争の準備が最も整っている時ほど、美しく見える」
返す言葉はなかった。
艦内へ静寂が戻る。
その奥では兵士たちが小声で話し合っていた。
「本当にこんな場所に”アレ”が眠っているのか?」
「そもそも存在すること自体、眉唾だろ」
「上層部の誰かが持ち込んだ話らしいが、作り話じゃないのか?」
「……だが軍が動く以上、何か掴んだんだろう」
ざわつく声を聞きながら、大佐は自分の後ろにいた二人の男に視線を向けた。
「回収は、お前たちに任せる」
一人の男は無言のまま、ただ小さく頷く。
もう一人は壁にもたれながら、懐から取り出したナイフをなぞりニヤリと笑った。
「……夜、街が静まってから動け」
「了解したわ」
ひらりと手を振りながら、ナイフを懐へ滑らせる。
だが、そこで一度手が止まる。
「あ、そういえば……今日の作戦のために雇ったあの人。ちゃんとやれたのかしら?」
チラリと視線を若い兵士に向ける。
「あっ……我々の動向を目立たせないようにするのに雇った男……ですよね」
「そう、それよ。さっきあの街から通信が入ったんでしょ?」
男はニヤリと微笑み、若い兵士を舐めまわすように見つめる。
「そっ、それなのですが……。列車の脱線はできたらしいのですが……」
「ですが?」
「どうやらすぐに復旧したらしく……。しかも雇った男も捕まったそうです」
男はその言葉に目を丸くした。
「はぁ!? せっかく高い報酬を先に払ったのに!? まったく……期待して損したわ!」
頬を膨らませながら腕を組み、壁にもたれ掛かる。
「……おい。静かにしろ」
騒ぐ男を注意しながら、大佐はもう一度アルディスを見た。
「それだけ……あの街は一筋縄ではいかんという事だ」
遠くに見える港では、人が働き工房からは槌の音が響き続ける。
誰もが今日を生きようとしている。
「それにしても……」
懐から煙草を一本取り出し、火をつけると紫煙がゆっくりと立ち昇った。
「こんな時に旅をしたいなどと」
呆れたように小さく鼻で笑う。
「あの娘……ルシア様には困ったものだ」
艦内の一室。
丸窓から差し込む朝日が、透き通る金色の髪を柔らかく照らしていた。
少女は窓辺に立ち、近づいてくるアルディスを静かに見つめている。
港では船が行き交い、人々が働き始めていた。
煙突からは白い蒸気が立ち昇り、新しい一日が始まろうとしている。
大佐が見た景色と同じ。
だが、その何気ない景色が、少女の強く胸を締めつけた。
「止めなきゃ……」
震える声が、小さく部屋に落ちる。
「私が……あの大戦の遺産を手に入れて……」
ぎゅっと拳を握り締める。
「この国がしようとしている戦争を――」
深く息を吸い、壁に掛けられていたローブを羽織った。
少女の瞳には迷いが残っていた。
それでも、その奥には決して折れない意志が宿っている。
軍艦はゆっくりとアルディス港へ近づいていく。
街は、もう目の前だった。
少女は小さく目を閉じ、誰にも届かないほど小さな声で祈る。
「……お願いです」
その祈りが、一人の青年へ届くことになるとは、この時はまだ誰も知らなかった。
アルディスの中央地区から、港へ向かう石畳の道。
シアンはゆっくりとその道を歩いていた。
ドクン。
また左腕の奥で、何かが脈を打った。
「……ん?」
シアンは思わず足を止める。
左手を見つめるが、義肢に異常はない。
「またかよ……」
小さく頭を掻き、そのまま歩き出す。
だがその胸の奥には、朝から消えない違和感だけが残っていた。




