3.赤い日の予感
窓から差し込んだ朝の光が、床に飛び散った油を鈍く照らす。
作業台の上では工具や金属部品が淡く光を返し、工房には配管を伝う蒸気の音が心地よく響く。
シアンは作業台の上に工具を並べ、港の商会へ持っていく修理道具の最終チェックをしていた。
右手で工具箱に工具を詰め込みながら、左手を細かく動かして義肢の調子を確かめる。
「うん! 朝の一件でおかしくなってないか心配だったけど、大丈夫そうだな!」
口の端を上げながら、シアンは腰ベルトに工具箱に入り切らなかった工具を差し込んだ。
「まったく! 遅刻した理由に汽車の脱線を直したってのもあるんなら、どうして先にそれを言わなかったんだい!」
「聞く前に頭ぶん殴ってきたのはどっちだよ!?」
騒ぐ二人の背後では、ラジオから軽やかな音楽が流れる。
このあと流れるのは、グレンダお気に入りの一曲だったはずだ。
だが——
ザ……ザザッ——ザー……
『——こちらアークライン帝国、国営放送局』
ノイズの合間から低く厳かな男の声が流れ出した。
『帝都より、我が帝国と隣国バルナス共和国についての最新の情報をお伝えします』
『我が国領海近郊は緊迫の一途を辿っており、国籍不明の船の領海侵犯が昨年に比べ、三割増加』
『先日行われた隣国バルナス共和国との平和協議は決裂。帝国議会は非常体制への移行を元帥のガレス・ハートランド氏が――』
グレンダはカウンター越しに舌打ちした。
「チッ……せっかくお気に入りの曲が流れると思ったのに……」
ラジオを止めることもなく、彼女は渋い顔で続ける。
「この国のお偉い方も、バルナスも、また血を流す気なのかね……」
その言葉に、工房の奥で工具を磨いていたカイが顔を上げた。
「戦争……起きるの……?」
グレンダはしばらく黙っていたが、やがてカイのもとに歩み寄り、その小さな頭をコツンと軽く叩いてから、優しく髪をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな顔すんじゃないよ。大丈夫さ、この街はどん底から立ち直った街なんだ。小さいお前さんでも知ってるだろ?」
グレンダの優しい声を聞いて、カイは小さくうなずく。
その目にかすかに光が戻るのを見て、グレンダは口元を緩めた。
工房の片隅でそのやり取りを聞きながら、シアンは黙々と荷物をまとめていた。
彼は、その放送に漂う“匂い”を感じ取っていた。
戦争はもう、始まっているのかもしれない。
それを誰も認めようとしないだけだ。
「……さてと、ばあちゃん。そんじゃあちょっくら港まで行ってくる」
工具箱を背負い、シアンは扉の取っ手に手をかけた。
外へ一歩踏み出し、外の光に義肢が照らされた瞬間、その背にグレンダの声が飛ぶ。
「シアン」
呼び止められた彼は、振り返る。
グレンダは、ラジオの隣に立っていた。
瞳にはいつもの快活さとは違う、静かな影が宿っていた。
「……今夜は必ず帰っておいで」
少しの沈黙の後、深くため息をついてから彼女は低く、意味深に続けた。
「――今夜は、“赤”が来る日だよ」
その言葉が口から出た瞬間、店内の空気が一瞬で冷たくなった気がした。
「赤? なにそれ、グレンダさん」
「……子どもは知らなくていいのさ」
グレンダはそう言ってカイに笑いかけるが、その笑みはどこか苦虫を噛み潰したような、そんな表情だった。
シアンの表情からは、笑みが消えていた。
朝の機関車の脱線事故を聞きつけた、あの時と同じ……いや、さらに鋭い視線。
「……了解。夜には必ず戻る」
短くそう答え、スチーム・フィールドを後にした。
街の喧騒と蒸気の風が、彼の顔を撫でた。
遠くでは、帝国の飛行船が低空を旋回している。
まるで、街を見張る影のように。
「“赤の日”、か……」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、シアンは港へと歩き出した。
その背中を見送りながら、グレンダは静かにラジオの音量を下げた。
放送の向こうでは、アナウンサーがまだ安全と忠誠を説いている。
「……またあの頃みたいな、黒と赤の空になっちまうのかねぇ」
工房の窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。
それでもグレンダには、その空がどこか赤く霞んで見えた。
港へと進む道を歩くシアンは、小さく口を開いた。
「どうりで……朝の変な違和感はそれか」
左手を見つめながら、朝の事件の後にあった違和感に納得する。
「変なところで勘が働きやがるな……しかも嫌な方向に」
シアンはゆっくりと目を瞑り、頭の中の記憶を思い出した。
「赤……たしか前は、二年前だったな」
暗闇の街、自分の目の前に立つ男。
そして、男の足元に転がっていた死体。
向かって駆け出す時に踏んだ地面の感触。
気付けば血がこびりついた義肢。
男は片目を押さえ蹲りながら、シアンを睨みつける。
『必ず殺してやる! スモーク・ウォーカー!』
目を開き、左手を僅かに握りこんだ。
「今回はどんな厄介事を持ってくるんだよ……」
しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
「ダメだダメだ、これから仕事するのにこんな顔してたんじゃ客がビビっちまう!」
そうして再び笑顔に戻ると石畳を蹴り、走り出した。
「さーて、今日こそはあの蒸留機直すか!」
そう自分に言い聞かせ、シアンは港へと向かった。




