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蒸気の心臓─機工幻想譚─  作者: らふぃお
第1章、運命の鼓動
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48.欠片の輝き、朝の街

夜を駆け抜けたアルディスに、静かな朝が訪れていた。


石畳には夜露がまだ薄く残り、煙突から立ちのぼる白い蒸気が街並みをやわらかく霞ませている。

鍛冶場から響く鉄槌の音はまだまばらで、その代わりに焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗り、冷えた朝の空気へゆっくりと溶け込んでいた。


崩れた煉瓦が小さく音を立てる。

その隙間から最初に這い出したのはシアンだった。


「……ぷはっ」


肺いっぱいに朝の空気を吸い込み、大きく息を吐く。


地下水路に満ちていた湿った空気とはまるで違う。

煤と鉄の匂い、遠くから漂うパンの焼ける香り、人が暮らす街の息遣い。

そのすべてが胸いっぱいに流れ込み、生きて帰ってきたという実感をようやく与えてくれた。


少し遅れてカイがよろよろと地上へ姿を現し、その後ろからルシアも静かに外へ出る。


振り返れば、煉瓦の山に隠れるようにぽっかりと口を開けた地下水路の出口があった。

命懸けで駆け抜けてきた場所も、朝日に照らされる今は、ただの崩れた廃墟にしか見えない。


「助かったぁ……」


力が抜けたようにその場へ座り込んだカイが、空を仰ぎながら大きく息を吐く。


ルシアもまた、ゆっくりと顔を上げた。


青く澄み始めた空が、静かに朝を告げている。

あの地下で命を落としていても、おかしくはなかった。


それでも三人はこうして朝日を浴びている。

その事実だけで、胸の奥が熱くなった。


「……帰ろう」


ぽつりと漏れたシアンの一言に、カイとルシアは静かに頷く。


三人は瓦礫をあとにし、見慣れた工房――スチーム・フィールドへの道を歩き始めた。


工房では、すでに朝の仕事が始まっていた。


炉の奥では赤く燃える炎が唸り、蒸気管の奥からは低く腹へ響くような駆動音が絶え間なく聞こえてくる。

煤で黒ずんだ棚には歯車や真鍮管、工具が所狭しと並び、油の匂いが工房全体へ染みついていた。


その見慣れた景色を目にした瞬間、シアンの肩からふっと力が抜ける。


ようやく帰ってきた、そう思えた。


シアンはスチーム・フィールドの扉に手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。


「ばあちゃん、戻った」


作業台へ向かっていたグレンダが手を止め、ゆっくりと振り返る。


「……帰ったかい」


たったそれだけの言葉だった。

だが、その声音には、無事を確認した安堵が確かに滲んでいた。


シアンは工具箱を机へ下ろし、革袋から一通の手紙と小さな欠片を取り出して並べる。


グレンダは無言のまま欠片を手に取ると、モノクルを掛け直し、朝日に透かすように掲げた。


金属とも鉱石ともつかない、不思議な質感。

見る角度によって青くも金色にも紫にも輝き、その色は一定に留まることなく揺らぎ続けている。


「ほぉ……」


小さく息を漏らしながら、グレンダは目を細めた。


「妙な代物だねぇ」


その様子を見つめながら、シアンは静かに口を開く。


「ばあちゃん……。たぶん、それが蒸気の心臓の欠片なんだ」


グレンダは欠片から目を離さないまま尋ねる。


「なんでそう思う?」


「それがあった扉を開けた瞬間だ」


シアンは地下で見た光景を思い返すように目を細めた。


「視界が、一瞬だけ光に包まれたんだ」


欠片を指差す。


「ちょうど今、それが放ってる光と同じような光だった」


工房が静まり返る。


「……光?」


グレンダがゆっくり呟く。


シアンは振り返り、カイとルシアを見る。


「でも、それを見たのは俺だけだった。そうだよな?」


「うん」


カイは迷わず頷いた。


「僕は見てないよ。扉が開いたら、手紙と欠片が置いてあっただけ」


「私もです」


ルシアも静かに頷く。


「光は見ませんでした」


シアンは腕を組み、小さく笑う。


「証拠はない。でも……俺の勘がそう言ってるんだ」


その言葉を聞いていたルシアが、何かを思い出したように小さく声を上げた。


「あ……でも」


全員の視線が彼女へ向く。


「シアンさんが使われたエーテルの光なら、見えましたよ」


その瞬間だった。


「なんだってぇッ!?」


雷が落ちたような怒声が工房中へ響き渡る。


思わず肩を跳ねさせるカイ。

シアンは勘弁してくれよと言いたげに天井を仰いだ。


「アンタ! エーテルコアを使ったのかい!」


「いや、その……使うしかなかったんだよ!」


慌てて左腕を突き出す。

 

蒸気兵装《Mark.Ⅲ》は装甲が裂け、歯車はむき出しになり、真鍮管は焼け焦げて黒く変色していた。


「見ろよ、この有様だ! 錆翼ってやつ、とんでもなく強かったんだから!」


すると横からカイが首を傾げる。


「でも兄貴。それ壊れたのって戦いが終わってからじゃなかった?」


「お、おい、それは今言うな!」


「このバカもんがァァァッ!」


ゴツン、と鈍い音が響く。


「いってぇ!」


頭を押さえてしゃがみ込むシアンを見下ろしながら、グレンダは腰へ手を当てた。


「エーテルコアはまだ試作段階だって何度も言ったろうが! 一歩間違えりゃ、その腕どころじゃなかったんだよ!」


怒鳴りながらも、その視線は壊れた兵装へ向けられる。


「それに……せっかくカイが組み上げて、アタシが調整した傑作だったのに」


「怒る理由そこなのかよ!」


「そこだよ!」


工房に笑い声が広がる。


さっきまで死線をくぐってきたとは思えないほど、いつもの空気が戻っていた。


その穏やかな時間の中で、シアンはもう一度欠片へ目を向ける。


「そうだ! ばあちゃん! その欠片が本物か確かめてみようぜ! 試しに工房の炉に入れてみてさ——」


「馬鹿言うんじゃなぁぁぁぁい!!」


今度は工房中の蒸気管が震えた。


「帝国全土を動かす力だって言われてる代物だよ! 欠片ひとつでも本物なら、何が起きるか分かったもんじゃない!」


その剣幕に、誰も言葉を返せなくなる。

重苦しい沈黙が工房を包み込んだ、その時だった。


ぐぅぅぅ……


場違いなくらい素直な音が響く。


全員がゆっくりと視線を向けると、耳まで真っ赤になったカイが照れくさそうに頭をかいていた。


「……えへへ。僕のお腹の音……」


一拍置いて、最初に吹き出したのはシアンだった。


「あっはっはっは! そういや俺も腹減ってんだよなあ!」


グレンダも肩を揺らして笑う。


「まったく、緊張感のない奴らだねぇ」


その時だった。


窓際へ歩いていたカイが、突然声を上げる。


「あっ! 見て!」


全員が窓の外へ目を向けた。


朝日に照らされた港。


巨大な黒鉄の軍艦グラナードが、白い蒸気を長く吐きながら、ゆっくりと岸壁を離れていく。


「……グラナード」


ルシアが小さく呟いた。


「おろ? てっきり俺らを追って街の中くまなく探すと思ったんだけどな」


腕を組んだシアンが鼻を鳴らす。


ルシアは遠ざかっていく軍艦から目を離さないまま、小さく微笑んだ。


「……本当に、行ってしまいました」


その横顔を見つめながら、グレンダは静かに口を開く。


「心臓を追っていた連中が、こんな簡単に諦めるとは思えない」


軍艦はゆっくり水平線へ向かって進んでいく。


「何か、別の厄介事でも起きたんだろうね」


そう言うと、グレンダはルシアへ向き直った。


「ハートランドのお嬢ちゃん……いや、ルシアだったね。こうなったからには、お前さんはしばらくはここにいな」


「帝都へ戻るより、その方が安全さ」


ルシアは驚いたように目を見開いた。


「……いいんですか?」


「今さら一人増えたくらいで困りゃしない。それにそこのバカが言ったろう、守るってね」


ぶっきらぼうな口調だった。

それでも、その優しさは十分に伝わる。


ルシアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「さて、そうとなったら——」


照れ隠しをするように背を向けながら、グレンダは上着を羽織る。


「今日は祝いだ。二人とも無事に帰ってきたし、新入りも増えた。こんな日は腹いっぱい食べるに限るよ」

 

モノクルを掛け直し、振り返って笑う。


「朝飯でも食べに行こうじゃないか」


「やったぁ!」


カイが飛び跳ねる。


「今日はあの店!?」


「そうさ」


グレンダは笑った。


「好きなもん食べな」


四人は工房をあとにした。


朝日に照らされたアルディスは、まるで昨夜の騒動など知らないかのように、いつもの一日を始めている。


煙突から立ちのぼる白い蒸気、鉄を打つ乾いた音。

焼きたてのパンの香り、街に住む者たちの笑い声。


その賑わいの中へ、四人の背中はゆっくりと溶け込んでいった。


やがて工房は静寂を取り戻す。


作業台の上には、朝日を浴びる小さな欠片だけが残されていた。

窓から差し込む光を受け、その表面がかすかに揺らめく。


そして――


ドクン。


小さな鼓動。


誰もいない工房で、もう一度。


ドクン。


それは、長い眠りの底で止まっていた何かが、静かに息を吹き返したような音だった。


だが、その鼓動を聞いた者は、まだ誰もいない。


それでも確かに――。


運命の歯車はまたひとつ、音もなく噛み合い始めていた。

蒸気の心臓─機工幻想譚─

第1章・運命の鼓動・完結

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