47.黒鉄の海の波乱
アルディスの港。
朝焼けに染まる海の上で、一隻の軍艦が静かに停泊していた。
黒鉄の船体。幾重にも張り巡らされた装甲板。
巨大な煙突から吐き出される白い蒸気。
その姿は、ただの船ではない。
アークライン帝国軍の威信そのものだった。
軍艦グラナード。
だが、その甲板を吹き抜ける潮風には、どこか緊張した空気が漂っていた。
艦内、司令室。
壁一面に広げられた地図。
机の上には通信記録と報告書が積み重なっている。
その中央で、一人の男が深いため息を吐いた。
「……まさか、そんなことになっていたとはな」
アークライン帝国軍大佐、ハーランは艶のある黒髪を後ろへ流しながら、鋭い視線を目の前の男へ向ける。
ラルゴ。
巨大な身体を持つ蒸気兵装使い。
外套の隙間から覗く金属の装甲は、低い駆動音を響かせていた。
「それで……スピアーの容態は?」
「意識は戻った」
ラルゴは短く答える。
「だが、しばらくは動けん。船医の話では絶対安静だそうだ」
その巨大な拳が、わずかに握り込まれる。
金属が軋む音が、静かな室内に響いた。
ハーランはそれを見逃さなかった。
「……錆翼のスピアーをそこまで追い込むとはな」
机の上へ視線をゆっくりと落とす。
「しかも……相手は、あのスモーク・ウォーカーか」
その名前が出た瞬間、側にいた兵士たちの間に小さなどよめきが走った。
「本当にいるんですか……?」
「裏社会の伝説がなんだってこの蒸気の心臓の件に……」
その中で、ハーランは指で机をトントンと叩いた。
「……存在は認知していたが、まさか我々軍にまで手を出してくるとはな」
ラルゴは窓の外へ目を向けた。
「動力プラントの地下が崩壊した時、奴らは逃げた」
低い声が響く。
「俺たちが脱出する直前……奥で何かが光った。あれはやつの蒸気兵装に使われていたエーテルの光だ、間違いない」
「エーテルだと? あれはまだ一般普及はされていないはずだぞ」
「それでも間違いない。あれが使われてから戦況がひっくり返った」
ラルゴの目が細くなる。
「……奴らはまだ、アルディスのどこかにいる」
ハーランはしばらく黙り込み、そして小さく頷いた。
「ならば、街中を探すしかないな。こうなったら人目を気にしている場合ではないだろう」
机の通信機へ手を伸ばしかけた時だった。
「……それにしても」
ハーランがふと口を開く。
「お前がそこまで印象に残す相手とはな」
机の端に置かれた映像記録を手に取る。
「通信機の映像記録を確認したが……妙なことになっている」
映し出された画面には、激しいノイズ。
人影らしきものは映っている。
しかし、その姿だけが不自然に消えていた。
「ジャミング装置でも使ったのか。奴が映る瞬間だけ、映像が潰れている。さすが、スモーク・ウォーカーと呼ばれるだけある」
ラルゴは画面を見る。
そして、静かに口を開いた。
「映像がなくても、俺は覚えている」
その声は低かった。
「あのオレンジ色の髪」
脳裏に浮かぶ崩れ落ちる地下の大空洞。
閃光が爆ぜ、直後吹き飛ばされるスピアー。
そして――
最後まで諦めなかった、あの目。
「左腕の蒸気兵装」
ラルゴは拳を握る。
「……スモーク・ウォーカー」
その名を呟いた。
「次に会った時は、必ず俺が止める」
「ならば、すぐに向かってもらおうか」
ハーランがそう言った瞬間、司令室の扉が勢いよく開いた。
「大佐!」
兵士が駆け込んでくる。
「緊急報告です!」
「何があった」
「ここから西へ二十海里。我が軍の艦が、バルナス共和国の艦艇と交戦中とのことです!」
「……何だと!?」
ハーランの表情が変わる。
「二十海里だと!? そこは我が国の領海内ではないか!」
怒りを押し殺すように拳を握る。
「バルナスめ……!」
そして即座に命令を下した。
「グラナードを出す」
「はっ!」
兵士が敬礼する。
だが、扉へ向かう直前で足を止めた。
「……しかし、大佐」
「何だ」
「ルシア様は……」
その瞬間、ハーランの表情がわずかに険しくなる。
「構わん」
低い声だった。
「今守るべきものは一人の娘ではない」
「この国だ」
室内の空気が張り詰める。
ハーランはラルゴを見る。
「すまんな」
ラルゴは首を横に振った。
「構わん」
ゆっくりと歩き出す。
「帝国を守ること。それが我々軍人の務めだ」
そして、足を止める。
「それに……」
海の向こうへ視線を向ける。
「奴らは言っていた」
「心臓はまだ手に入れていない、と」
ラルゴは静かに続けた。
「ならば、ここに残る理由はない」
その背中を、ハーランは黙って見送った。
数分後。
艦内に警報が響く。
蒸気管が一斉に開放され、巨大な機関が目を覚ます。
『艦内総員へ告ぐ!』
ハーランの声が艦内へ響き渡る。
『これよりグラナードは西方海域へ向かう』
『我らの友を救うぞ』
港に響く汽笛。
黒鉄の軍艦は、大量の蒸気を吐き出しながらゆっくりと動き始めた。
甲板の上。
ラルゴは遠ざかっていくアルディスの街を見つめていた。
煙突から立ち上る白煙。小さくなっていく街の灯り。
そして、脳裏に浮かぶ一人の男。
「……スモーク・ウォーカー」
低い呟きが、海風に消える。
その中で——。
ラルゴの両肩に装備された蒸気兵装が、轟音とともに蒸気を噴き上げた。
「次は――」
拳を握る。
「俺が相手だ」
その声は、波を越えてアルディスへ届くほど響いた。
「首を洗って待っていろ」
黒鉄の軍艦グラナードは白い航跡だけを海へ残し、ゆっくりとアルディスから姿を消していった。




