45.水路を抜けて
静かに流れる地下水の音が、闇の中でやけに大きく響いていた。
足元を照らすランタンの明かりが、水面に揺れては歪み、そして消える。
湿った石壁に触れるたび、ひやりとした感触が指先に残る。
水路はまるで街の記憶そのもののように、静かに息づいていた。
シアンは歩みを緩め、肩越しに振り返った。
「……大丈夫か、二人とも」
背後では、カイとルシアが小さく息を整えていた。
靴の先から水が滴り、足取りは重い。
それでも先ほど繋がった通信が、かろうじて二人の足を前へ進ませている。
ルシアは胸元に手を当て、ひとつ深く息を吸った。
まだ心臓の鼓動は速い。だがそれはもう恐怖だけではなかった。
カイの頭にとまるクロックバードの瞳が、淡く光を帯びた。
「──ばあちゃん、まだ聞こえてるか」
シアンが声をかけると、すぐにグレンダは言葉を返した。
『聞こえてるよ。それで、どうだったんだい蒸気の心臓は』
シアンは視線を前に戻し、そのまま歩きながら口を開いた。
「……空だった。蒸気の心臓は、もうあそこにはなかった」
一瞬の沈黙。
水の滴る音だけが、間を埋める。
「代わりに、手紙と……妙な欠片が残されてた。ちなみに、差出人はレオナール・グレインからだ」
通信の向こうで、低く息を吐く気配がした。
『なるほどねぇ……』
少しの間を置いて、グレンダの声が続く。
『そいつは厄介な流れになってきたね。まさか消えた天才の名前が出てくるとなると、ただ事じゃない』
グレンダは小さく鼻を鳴らした。
「だよな?それと……軍の連中と鉢合わせしてやり合った。錆翼ってやつだ。ばあちゃん知ってるか?」
『ほう……そりゃ軍の特殊部隊だよ。よくまあそんな奴らから逃げきれたね』
「まあ、いろいろあってな。それで、奴らはルシアの親父さん……帝国軍の元帥のことを“キース様の傀儡”って呼んでた」
短い沈黙のあと、グレンダがぼそりと呟いた。
『キース様……。大将……キース・バレンタインだね』
「たしか、依頼人の口から出た名前だよな」
『帝国軍の実質的な指導者……。そう言ってたね』
その名は、水路の奥へと沈んでいった。
シアンは一度、息を吐く。
壊れた左手に視線を落とすと、わずかに音が鳴る。
「それでな、ばあちゃん。話は変わるんだけど……」
ふいに足を止める。
ランタンの光が、三人の影を壁に揺らした。
「ルシアを、このまま軍に戻すのは危ねえと思うんだ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「だから──俺たちで守りたい」
「僕も兄貴の意見に賛成だよ!」
通信の向こうが、静まり返る。
長くはない。だが、確かに“考える間”だった。
「グレンダさん! お願い!」
やがて、老婆の深いため息が落ちる。
『……まぁ、普通に考えたらそれが一番安全だろうね』
呆れたようだが、どこか納得した声だった。
『力を失った元帥の娘、しかも情報まで持ってる。そんなもん放り返したら、どうなるかくらい想像はつく。軍なんてのは、そういうもんだ』
くぐもった笑いが、わずかに混じる。
『それにアタシが止めたところで、シアン……お前さんが聞くとも思えないしね』
シアンは肩をすくめてニヤリと笑う。
「まあな。困ってるやつを放っておくような教育、俺は親から受けてねえからな」
『ははっ、随分といい教育を受けたようだね。ぜひ親の顔が見てみたいね』
クロックバードの向こうのグレンダが、鼻高々と笑ってみせた。
『そういうことだ。ハートランドのお嬢ちゃん、聞こえたかい?』
ルシアがはっと顔を上げる。
「は、はい!」
『アタシのところに帰ってくるまでの道中。そのバカどもを頼むよ』
一瞬だけルシアは目を丸くし、そして小さく笑った。
「……はい、ありがとうございます。グレンダ様」
『“様”はいらないよ』
「あっ、えっと……あ、ありがとうございます。グレンダさん」
迎え入れられたその感覚にルシアの胸の奥が、ほんのわずかに温かくなった。
カイが小さく笑いながらシアンの袖を引いた。
「ねえ兄貴。思ったよりすんなりグレンダさん受け入れてくれたね」
「だな。てっきりもうちょい──」
『このバカもんどもがぁぁッッ!!』
怒声が、狭い水路に反響した。
二人の肩が同時に跳ねる。
「ひ、ひぃ……! き、聞こえてたァ!」
「やべぇ! ばあちゃんがキレたぞ!」
『尋問や拷問、はたまた殺されるかもしれないって分かってて返す奴があるもんかい!』
「まっ、待ってくればあちゃん! 冗談! 冗談なんだ!」
『だいたいねシアン、いやカイもだ! お前さんらは昔っからいつもいつもッ——』
その瞬間クロックバードがふわりと飛び上がり、シアンの頭に着地した。
次の瞬間、容赦ない一撃。
「いってぇ!! なんで俺だけなんだよ! 先に言ったのはカイだぞ!」
『黙りなッ!!』
嘴が、正確に同じ場所を叩く。
「くっ、この鉄くず鳥め! 今こっちは左手おしゃかなんだぞ!?」
シアンは必死に頭を押さえながら逃げ回る。
「ぷっ! あはははっ!」
カイが腹を抱えて笑い、ルシアも思わず吹き出した。
笑い声が、暗い水路にやわらかく広がる。
ほんの少し前まで死と隣り合わせだった思えないほど、その空気は穏やかだった。
その時だった。
「あ……あれは?」
ルシアが足を止め、前を指差す。
闇の奥に、かすかな光が滲んでいた。
水面に反射したその光が、揺れながら三人の足元まで伸びてくる。
「兄貴! あれきっと出口だよ!」
カイの声が弾む。
シアンは目を細め、ふっと息を吐いた。
「ようやく、か」
シアンはまっすぐに走り出した。
「よし! お前ら、行くぞ!」
三人は、水を蹴る音を響かせながら、光へ向かって駆け出した。
通信の向こうで、グレンダが笑う。
「さっさと帰っておいで! 特にシアン、お前さんは昨日の夕飯食べ損ねたろう!」
その言葉を聞いてシアンはハッとした顔をする。
「そういや飯食ってなかった! ……だから軍のやつとやりあった時キレがなかったんだなぁ」
『だから昨日の朝、早く帰っといでって言ったじゃないか!』
笑い混じりの声が、背中を押す。
出口が近付き、光が強くなる。
冷たく澱んでいた空気が、徐々にに変わり始める。
そして三つの影は、朝の中へと飛び出した。
だがこの騒動は——。
ほんの始まりに過ぎなかった。




