44.暁の信号
スチーム・フィールドの屋根を覆うパイプ群の間から、朝靄が薄く立ち上っていた。
外の空気は冷たく、夜の湿気を残したまま。
時計の針は、朝一番の汽笛が鳴る頃を指そうとしている。
グレンダは工房の奥で、動かぬ通信機を前に腕を組んでいた。
夜にコーヒーを飲もうと沸かしたお湯も、今はもうすっかり冷めてしまっている。
蒸気管からの音が静かな空間に時折響く。
シアンたちと連絡が途絶えてから、もう何時間も経過していた。
「……まったく、あの子たちは」
溜息まじりの声が漏れる。心配で手がつかない。
整備途中の工具も、点検していたエンジンも、もう頭に入らない。
外の通りをふと見やると、東の空がわずかに白み始めていた。
静かに夜が明けるそのことが、むしろ胸をざわつかせた。
少し前、シアンたちが向かった北区のほうから、低く鈍い地鳴りが聞こえた気がする。
ただの錯覚であってほしいと願ったが、胸の奥がそうではないと告げていた。
「何も……ないといいんだがね」
ぽつりと呟くその声とともに、これまで二人と一緒に工房で過ごした日々が思い出される。
『ばあちゃん! この前の修理依頼の時に見せた神業見せてくれよ!』
『グレンダさん! また凄い発明したから見て!』
あの二人だけに任せず、自分も一緒に行っていれば。
そんな後悔ばかりが頭を巡る。
そんな時、外から大人数の足音が聞こえてきた。
窓の外をのぞくと、街の警官たちが慌ただしく北区方面へ走っている。
その中に、見慣れた顔が一人。
グレンダは窓を開けてその警官に声をかけた。
「ゴード。こんな明け方からどうしたんだい?」
呼び止められたのはシアンを広場で説教していたゴード刑事だった。
彼は息を切らせながらも呼び掛けたグレンダの方に向いた。
「グレンダ婆さん、どうもこうもない! 北区の動力プラントで監視用オートマトンが数体ぶっ壊されてたんだ。看守らしき男が一人殺されたって話だ!」
返答を聞いたグレンダは思わず目を丸くする。
「待ちな! 北区の夜間警備はオートマトンだけのはずだよ。人がいるなら作業員くらいしかいないだろう!」
「そうのはずなんだがな! 悪いが時間がない! 至急現場へ向かわなきゃならん!」
そう言い残して、ゴードは仲間とともに走り去った。
グレンダはしばし窓辺に立ち尽くした。
いつもの夜明け前の街が、どこか違う世界に見える。
クロックバードの通信が切れている間に何かが起きた。
その確信が胸を締め付けた。
机に戻ると、シアンとカイの顔が浮かぶ。
誰よりも優しくて、すぐに無茶をしてしまうシアン。
そんな兄貴分の背中を追いかけ、真似をする機械いじりが大好きなカイ。
そして——。
クロックバード越しに見たあの少女、ルシア・ハートランド。
自身の父親が帝国軍の元帥であり、その軍が欲しがる蒸気の心臓を壊すと語った時の、あの瞳。
もう何もかもが、まるで遠い昔のように思えた。
「……とんでもないお願いを引き受けちまったよ」
グレンダはぎゅっと目を閉じた。
頭の奥に、出発前にカイとしたやり取りを鮮明に思い出す。
『帰ってきたら……そのギアランナー! アタシにもよく見せておくれよ!』
『うん、楽しみにしてて!』
その約束だけを支えに、グレンダは待ち続けていた。
時間だけが流れる。時計の針の音が、やけに大きく響く。
朝焼けが窓の縁を染めた、その時だった。
——ザザッ、ザー……ザザザッ。
机の上に置かれた通信機が、不意にノイズを吐き出した。
クロックバードと繋がっている通信機のランプがかすかに光を帯びる。
グレンダは飛びつくようにそれを掴んだ。
「き、聞こえるかい! シアン、カイ!!」
ノイズ混じりの中から、かすかな声が返る。
『……ばあちゃ……聞こえ──か?』
『ばあちゃん、聞こえるか?』
シアンの声を聞いた瞬間、グレンダの体から一気に力が抜けた。
震える手で通信機を握りしめる。
「聞こえるよ……! 聞こえてる! この、バカもんが!」
涙交じりの声に、自分でも驚く。
通信の向こうから、息混じりの笑い声が返る。
「ははっ……悪かったな。かなりヤバかったけど、俺もカイも……それとルシアも無事だ」
その一言で、胸の中の氷が溶けていくのがわかった。
「……そうかい。無事ならそれでいい。全く、心配かけおって」
グレンダは額に手を当て、笑いながら涙を拭った。
通信の向こうでは、蒸気の音と遠くの水の流れる音が混じっていた。
きっとどこかの地下、夜明け前の空気の中にいるのだろう。
「今はどこにいるんだい?」
『街の下だよ、水路だらけの。とりあえず風が吹いてくる方向に進んでる』
「そうかい。なら急がなくていい、無理はするんじゃないよ」
『ありがとう。心配かけてごめんな』
『グレンダさん! 大丈夫だからねー!』
通信するシアンの向こう側から元気そうなカイの声が聞こえた。
グレンダは窓の外を見た。
先程までとは違い、いつもの夜明け前の街。
夜が終わり、街が目を覚ます。
中央広場にそびえ立つ鐘楼の影から、ゆっくりと朝日が顔を出した。
「……良かった、本当に良かったよ」
小さく呟いた声は、誰に聞かれることもなく、蒸気の朝霧に溶けていった。




