31.暗流を渡る者たち
地下を流れる水が、暗闇の奥で低く唸っていた。
アルディス市街のさらにその下、帝都とこの街を結ぶ古い水路。
かつて戦時中、物資と人員を敵国にバレぬよう極秘に運ぶために造られたというその地下航路は、表の歴史からも抹消された“幻の路”として、ほんの一握りの者しか知らない。
蒸気で動く双胴艇が、その水路を滑るように進む。
舵を握るのは、少し前までスチーム・フィールドの地下でグレンダと秘密の会合を行っていたバーン・アルベルト。
そしてその隣に座るのは若き軍人、ガルド・レイナ。
二人は船に揺られながらも、ひたすら止まることなく帰路となる水路を進む。
冷えた水路の空気がガルドを一瞬震わせる。
「行きもそうでしたが……帰りもこの暗い地下をバーン様はよく間違えずに通れますね」
前を照らす淡い蒸気灯の明かりを見つめながら、ガルドが感嘆の声を漏らす。
「二十年、この道を通っているからな。蒸気の魔女殿のところへは、ここを通って何度も足を運んだよ」
バーンの声は穏やかだが、その裏には歴史の重みが滲む。
船の横腹をかすめるように、灰色の水泡が立ち上る。
どこまでも狭い水路の壁面には、戦時中に刻まれた帝国の紋章が錆びついたまま残っている。
現在この地下を行き交うことを許される者は、ごくわずか。
それこそがバーンやガルドが与する“赤”と呼ばれる組織に属する者たちだった。
「それにしても……」
ガルドが腕を組みながら何かを思い返すように口を開いた。
「あのシアンという青年……。あのような口をバーン様に利くとは。もし私が“赤”としてではなかったら、あの時きっと彼を殴り飛ばしていましたよ」
熱く、若き軍人らしい直情が彼から滲み出る。
しかし、その言葉を聞いたバーンは何故か笑っている。
「彼はああ見えて、なかなかの手練れじゃよ。お前さんが殴りかかったら、逆に返り討ちにあっていたかもしれんな」
バーンは苦笑混じりに言いながら双胴艇のスロットルを少し開くと、低いエンジン音が地下に響いた。
「ははっ……まさか。あの飄々とした男がですか? 蒸気の魔女殿ならともかく、彼がそんな力を?」
ガルドは脳裏に地下室で見たシアンの顔を思い出しながら信じられないという顔をしてバーンを見つめた。
「蒸気の魔女殿は表の社会でも有名な名だ。彼女が携わった発明は帝都にいくつもある」
しばらくの沈黙が二人の間に流れた。
「だが──、裏の世界では違う」
バーンの横顔に、一瞬だけ陰が差した。
「スモーク・ウォーカー。あの青年……シアンくんの通り名だよ」
「そう言えば、先程地下室で彼をそう呼んでいましたね。
有名なのですか?」
ガルドの質問に、バーンは口元に笑みを浮かべながら答える。
「裏稼業の者なら、その名を知らぬ者はおらん。依頼を受けた仕事は、どんな事でも煙に紛れて完遂する」
そして、バーンはとある事件に触れた。
「二年前、アークライン帝国を震撼させた連続殺人事件──《キュクロープス事件》を覚えておるか?」
そう尋ねられると、ガルドは首を縦に振る。
「帝国兵士が次々に殺害された……あの件ですね。たしか帝国警察が犯人を捕らえたと……」
「表向きはそうだ。だが、実際にあの狂人を捕縛したのは警察ではない」
そしてバーンはその狂人を捕縛した男の名前を口にする。
「やつを捕まえたのはあの青年。シアン・クロウ=フィールドなのだ」
「なっ……! まさか!」
ガルドは息を呑んだ。
「戦場で名を馳せた傭兵やこの国の治安を第一に考える警察ではなく、あの若造が!?」
バーンはゆっくり頷いた。
「若いゆえに、動ける。迷わぬ。蒸気の魔女殿が知恵であり脳ならば、彼は実行する手足。あの二人が揃えば、どんな任務もやり遂げるだろうよ」
バーンは目を細め、暗闇の先を見据えた。
「だがそれゆえに、彼らの行く道もまた危うい。蒸気の心臓を巡る争いは、きっと血を見ることになる」
静かな声に、どこか老獪な諦念が混じっている。
船内の蒸気灯が微かに揺らぎ、ガルドの横顔を照らした。
「……さて、夜明けまでには帝都に戻らねばならん。誰かに見つかれば、密談のことが露見してしまう」
そう言ってバーンはレバーを押し込み、船の速度を上げた。
狭い水路を風が抜け、蒸気の尾が白く弾ける。
やがて、ガルドがぽつりと呟いた。
「彼らなら……大丈夫でしょうか?」
「きっとやり遂げるさ。今までもそうだった。だからこそ、私は彼らに託したのじゃ」
老貴族の声には、年輪のような確信があった。
「……わかりました」
ガルドはこくりと頷き、蒸気灯の明かりの中で拳を握る。
「バーン様がそう仰るなら、私も──あの魔女殿と青年に賭けてみましょう」
バーンは満足そうに微笑み、スロットルをさらに押し込む。
ミニ艇のエンジンが唸りを上げ、闇の川面が荒れる。
黒い天井から滴る水滴が光を反射し、まるで星のようにちらついていた。
「……さあ、急ぐぞ」
その言葉とともに、艇は蒸気の尾を引きながら、闇のトンネルの先へと消えていった。
誰も知らない地下の流れ。
だが確かに、この暗流の中で新たな策謀が動き始めている。
アルディスの地下、帝都の影、そして“蒸気の心臓”を巡る運命。
すべての歯車は、静かに、しかし確実に回り始めていた。




