30.錆翼
一方その頃――。
蒸気と煤煙に覆われたアルディス北区。
巨大な動力プラントから絶え間なく噴き上がる白煙は空を覆い、昼間だというのに辺りは薄暗い。
錆びついた鉄塔が幾本も立ち並び、頭上を走る配管からは時折蒸気が吹き上がり、低いうなり声のような音が街全体へ響き渡っていた。
戦争の傷跡を色濃く残すこの区域には、夜は人の姿はほとんどない。
あるのは鉄と油の匂い。
そして、機械だけが息をしているような静寂だった。
その動力プラントの正門前に、二つの人影が静かに立っている。
長い外套を身に纏い、霧の向こうをじっと見据える二人。
風が吹くたび、その裾がゆっくりと揺れ、足元の煤をさらっていった。
彼らはハーラン大佐の命を受け、軍艦グラナードから密かに送り込まれた者たちだった。
帝国軍特殊部隊。
その名は軍内部ですら軽々しく口にされることはない。
戦時中、敵要塞の制圧、重要人物の暗殺、極秘任務――表には決して残らない仕事だけを請け負ってきた影の部隊。
精鋭の中からさらに選び抜かれた者だけが所属を許されるその部隊は、いつしか人々からこう呼ばれるようになった。
——錆翼。
その異名だけが、畏怖とともに今なお帝国中へ語り継がれている。
「……結局、ルシア様の居場所は分からないな」
岩を削るような低い声が、静寂を破った。
声の主は、鉄塊をそのまま人の姿へ押し固めたかのような巨漢。
錆翼隊長、ラルゴ・ドレイク。
肩幅は大人二人分ほどもあり、外套の内側からは巨大な蒸気兵装が両肩に食い込むように取り付けられている。
露出した真鍮の装甲には幾重もの傷跡が刻まれ、それだけで彼が潜り抜けてきた戦場の数を物語っていた。
その隣では、細身の男が緑色の髪を耳へかき上げ、肩をすくめる。
黒い革手袋に包まれた細長い指先。
女にも見紛うほど整った顔立ちとは裏腹に、その瞳だけが獲物を値踏みする蛇のような冷たさを宿している。
「お嬢様の行方はあとでいいじゃない。ここまで来たんだし、今は”蒸気の心臓”の方を優先しましょ」
そう言って霧の奥に霞むプラントを眺める。
その口元には、妖しく艶めいた笑みが浮かんでいた。
「あのお嬢様なんかより、こっちの方が今は価値があるもの」
スピアー・レイン。
錆翼随一の情報処理能力を誇り、暗殺任務を専門とする男だった。
——錆翼。
かつてエルディア大戦の最中に創設された、帝国最強の特殊部隊。
その力は、一人で十数名で構成された部隊を相手取ってなお無傷で勝利するとも噂されている。
もっとも、その真偽を知る者は少ない。
彼らと敵として向き合った者の多くは、その真実を語る前に命を落としていた。
戦争終結後も部隊は存続し、所属する人間だけが時代とともに入れ替わっていく。
国家が表向きには決して動かせない任務。
証拠も記録も残してはならない仕事。
錆翼とは、帝国が闇へ放つ刃だった。
二人が北区へ足を踏み入れた、その時だった。
霧の奥から、乾いた電子音が静寂を切り裂く。
【侵入禁止エリアデス】
【侵入者ハ捕縛対象トナリマス】
【抵抗スル場合、攻撃シマス】
重い足音を響かせながら、一体のオートマトンが姿を現した。
蒸気を噴き上げながら両眼が赤く発光する。
右腕には銃口。
左腕には捕縛用ネット射出装置。
無機質な警告を繰り返しながら、ゆっくりと二人へ照準を合わせていく。
その姿を見た瞬間だった。
ラルゴの口元がわずかに歪む。
「ふん……。ガラクタが偉そうに抜かしやがって」
「ちょっとラルゴ。やめなさいよ?」
スピアーが嫌な予感を覚え、慌てて制止する。
だが、ラルゴは聞く耳を持たない。
外套の下から右腕を突き出した瞬間、真鍮の装甲が音を立てて展開し、内部の歯車とピストンが一斉に唸りを上げた。
蒸気が白く噴き上がる。
瞬く間にその腕は、人ひとりを容易く握り潰せそうな巨大な鋼鉄のアームへと姿を変えていた。
関節が軋み、重たい金属音が響く。
次の瞬間、巨腕は一直線に伸び、オートマトンの胴体を容易く掴み上げた。
「む……? 思ったより固いな」
「ちょっとぉ! アンタやめなさいって言ったでしょ!」
スピアーの悲鳴にも似た声が飛ぶ。
しかし、その声が届くことはなかった。
ラルゴの五指へ、さらに力が込められる。
ギギギギ――。
鋼鉄同士が悲鳴を上げた。
装甲が歪み、関節が砕け、内部から火花が激しく飛び散る。
「だが、俺にとってはこんなものは造作もない」
その一言とともに、轟音が北区へ響いた。
オートマトンは金属片となって砕け散り、残骸が地面へ無惨に転がる。
その直後だった。
腰に下げた通信機から低い男の声が流れる。
『……今の音は一体なんだ?』
軍艦グラナードから。
通信の相手はハーラン大佐だった。
『まさか貴様ら、余計なことをしているわけじゃないだろうな?』
抑えた声色だったが、その奥には苛立ちが滲んでいる。
「ハ、ハーランちゃん! アタシは止めたのよ! 本当よ!? でもコイツが勝手に――!」
スピアーが慌てて弁明する。
一方のラルゴは、潰れたオートマトンを見下ろしたまま鼻を鳴らした。
「……邪魔をしてきたものを壊しただけだ」
通信の向こうで、深いため息が聞こえる。
『“だけ”で済む話ではない。痕跡は後々面倒を呼ぶ』
少し間を置き、ハーランは低く告げた。
『いいな。最低限の行動だけに留めろ。お前たち錆翼、ひいてはアークライン帝国軍の名を汚すな』
それだけ言い残し、通信は途切れた。
静寂が戻る。
スピアーは額へ手を当て、大きく息を吐いた。
「ねぇアンタのせいで錆翼がトラブルメーカーだと思われるじゃない。この任務に乗り気じゃないのは分かるけど、隊長なんだから少しは落ち着きなさいよ」
ラルゴは肩へ置かれた手を鬱陶しそうに払いのける。
「ふん……。鬱憤晴らしだ」
そのまま歩き出しながら、低く続けた。
「偉そうなことを言うが、お前も人のことは言えんだろう。あんな”趣味”を持っていてはな」
スピアーの眉がぴくりと動く。
「今はアンタが壊した話をしてるの。アタシの趣味を持ち出す必要ないじゃない」
小さく舌打ちしながら、その背中を追う。
二人の姿は立ち込める蒸気の中へゆっくりと溶け込んでいった。
その頃――。
地上では錆翼が、動力プラントの奥へ。
地下ではシアンたちが、同じ場所を目指して歩みを進めていた。
互いの存在を知らぬまま。
それでも運命は、噛み合う歯車のように少しずつ距離を縮めていく。
地下深く。
すべての始まりが眠る、その場所へと。




