25.邂逅
——逃げなきゃ。
そんな言葉を、何度頭の中で繰り返しただろう。
必死に走る靴音が響く。
後方から聞こえるオートマトン特有の足音が、すぐ背後まで迫っている。
息が荒く、胸が焼けるように熱い。
肺が悲鳴を上げているのに、足は止まらない。
止まったら、もう二度と前には進めない気がした。
深夜のアルディス北区の通り。
空を横切る蒸気管の影が、まるで無数の鎖のように頭上を覆っている。
街路灯の灯りは煤けて鈍く、立ち並ぶ建物の窓にはどこも人影がない。
ここはこの街の中でも、夜間の監視がもっとも厳しい区域――それを承知で、彼女は足を踏み入れた。
息を切らせながら、少女はぐっと胸元を押さえた。
心臓が早鐘のように鳴る。
だが、それは恐怖だけのせいではない。
——蒸気の心臓。
その言葉を思い出すたび、彼女の中で何かが軋むように痛む。
ほんの数日前、彼女は父――アークライン帝国元帥の執務室で行われた密談を、偶然耳にしてしまったのだ。
その場に集まった中で、一人の大将が発言したあの言葉。
「アルディス動力プラントの地下に眠る禁断のエネルギー、蒸気の心臓を回収し、バルナス共和国を陥落させましょう!」
頭の中に何度もあの声が木霊する。
あの瞬間、少女の胸に走ったのは、恐怖ではなく怒りだった。
もう二度と、戦争を繰り返してはいけない――。
だからこそ彼女は、軍の誰にも告げず、ただ一人で動いた。
ハーラン・ヴォルグナー大佐に懇願し、煙たい顔をされながらも軍艦グラナードに乗り込んだ。
行く先が地獄だとわかっていても、立ち止まるわけにはいかなかった。
だが現実は残酷だった。
今、彼女の背後を追っているのは、帝国軍が発明した迎撃捕獲用オートマトン。
かつて父が犯罪者を逃さぬ番犬として開発を命じた機械だ。
その鉄の脚が今、自分に向かって唸りを上げている。
「はぁっ……! はぁっ……!」
少女は角を曲がる。
蒸気管から吐き出された白煙が視界を遮り、肺を焼く。
――もう限界だ。
そんな時、石畳に足を取られ、身体が前のめりに倒れた。
「きゃっ!」
膝を擦りむいた痛みも気にせず、這うようにして前に進もうとする。
しかし、背後で機械の足音が止まる。
赤い警告灯の光が霧の中で瞬き、冷たい金属音が響いた。
——捕まる。
その言葉が頭をよぎった瞬間、全身の力が抜けた。
「やっぱり……。私じゃダメなのですか……」
小さく呟き、地面に額をつけた。
蒸気の臭いに混じって、涙が頬を伝い、土に染みていく。
もう、ここまでか。
そう思った、その時。
バシュン!
風を裂く音が頭上から響いた。
次の瞬間、視界に影が落ちる。
鉄の音を伴って、誰かが目の前に着地した。
「ギリギリ間に合った! お嬢さん、大丈夫かい?」
その声は、どこか軽く、しかし不思議な安心感を伴っていた。
顔を上げると、蒸気に霞む光の中で、オレンジ色の髪の男が立っていた。
左腕は金属の義手で、そこからは蒸気が漏れている。
彼の背後では、オートマトンが金属の腕を振り上げていた。
そして、その腕は男の頭頂へと振り下ろされる。
少女は思わず目を瞑った。
ガチィィィンッ!
金属がぶつかる音が響き渡る。
少女はゆっくりと目を開き、男を確認する。
「……えっ!」
少女が見た光景は、オートマトンの攻撃を左手の義手で受け止めている男の姿。
「おい! せっかくカッコつけてんだから……」
男はぴょんと跳ねると、体を回転させる。
「邪魔すんなッ!!」
そう叫びながら、オートマトンの側面へと回し蹴りを放った。
攻撃を食らったオートマトンは体勢を崩しかけるが、一歩寸前で留まると再び状態を整えて男と対峙する。
騒ぎを聞きつけ、数体のオートマトンも現れ始めた。
【対象ヲ迎撃、捕縛シマス】
無機質な声がオートマトンから流れた。
しかし、男は焦る様子はない。
「バーカ、誰が捕縛されるかよ」
そう告げると、男は少女に目を向けた。
「お嬢さん! 立てるかい!?」
少女は男の問いかけに首を縦に振ると、急いで立ち上がった。
次の瞬間、男の義手から鋼のワイヤーが放たれる。
「それなら……行くぞッ!」
少女の腰を抱き寄せるようにして、男は空へと跳んだ。
「きゃあっ!」
少女は思わず声を上げる。
風が頬を切り裂き、地面がみるみる遠ざかる。
恐怖で目を閉じた少女に、男が苦笑するように声をかけた。
「ごめんな! ちょいとスリルあるけど我慢してくれ!」
義手から次々と放たれるワイヤーアンカーが、建物の縁に撃ち込まれ、勢いをつけて次の屋上へ。
まるで空を渡るように、彼は軽やかに飛び移っていく。
少女はうっすらと目を開け、自分を抱き抱える男の顔を見つめた。
「あなたは……。いったい誰なのですか……」
少女がようやく声を絞り出す。
だがその問いは、男の声にかき消された。
「カイ! 扉は開いてるか!?」
男がそう叫ぶと、自身が目指していた北区最奥の動力プラントの裏口の中からひょっこりと小さな少年が現れた。
頭の上には小さな機械仕掛けの小鳥がちょこんと乗っている。
「兄貴! こっちだよ! 早く早く! オートマトンが来ちゃう!」
カイと呼ばれた少年の姿に、少女は目を丸くした。
男はその少年の確認するとニヤリと笑う。
「よし! 今行くぞッ!」
男の左手から最後の一射が放たれる。
バシュン!
発射されたワイヤーアンカーが音を立てて屋根を貫くと、男はグッとワイヤーを引きながら少女をぐっと抱き寄せた。
「しっかり掴まっててくれよ!」
男が告げると、二人の身体が放物線を描いて裏口へと飛び込む。
「きゃあぁぁぁ!!」
少女は悲鳴を上げながらも、男にこれでもしがみついた。
ズザザザッ——!!
金属音を響かせて男は少女抱えながら裏口の中へと飛び込んだ。
少年は二人が中に入ると、二人に目もくれずに急いで扉を閉めた。
『シアン! 大丈夫かい!?』
少年の頭の上に乗る小鳥から、老女の声が響いた。
外では、先程まで少女を追跡していたオートマトンが通りを走り抜けていく。
男はゆっくりと少女を下ろし、踵を返して少年の方に向いた。
「大丈夫だばあちゃん! それとナイスだぜカイ!」
シアンと呼ばれた男は、笑いながら少年に親指を突き立てる。
「へへへ! 僕が着いてきてよかったでしょ?」
少年も同じように親指を返して、にかっと笑った。
少女はその様子をただ呆然と見つめていた。
荒い呼吸を整えながら、胸の奥がじんわりと熱くなる。
——この人たちは、いったい誰?
敵か、味方か。
けれど、あの腕の中にあった温もりは、紛れもなく救いのものだった。




